る妃の笑顔
それを見てステンカラージン醒めしは『悲し』
[#ここで字下げ終わり]

 義賊ステンカラージンは仲間の規約を無視してペルシャ王妃を救つた上二人は恋の悦楽に酔ふ、部下のドンコサックがこれを怒りステンカラージンは反省して、妃を海に投ずる筋の民謡を歌つたのであつた。
 闇の中で警戒してゐた若い巡査は、歌の中から、『我等』と『彼等』とを拾ひ、『悲し』といふ歌の言葉を『監視』と解釈し、三つ結びつけて名調子に『彼等は我等の行動を常に監視し』と即興的に纒めあげたものにちがひなかつた。
『ひとつ君、その歌を見本に歌つてみい―』
『はつ、よろしう御座います』
 彼は取調べ室で体を左右にゆすぶり、指でタクトをとり『ステンカラージンの歌』を陽気にうたつた。
『この歌はレコードにもあります、革命歌などと大それた、神かけて嘘は―』歌ひ終ると平謝りにあやまるのであつた。
『まあ、どつちでもいゝ、当分此処へ泊つてゆくんだね』と係官はいふのであつた。

  下駄は携帯すべからず

 失業者珍太は二条の白く光つて続いてゐる鉄道線路伝ひに三十里歩るいてきた。
『東京へ着いたらしいな』と彼は半信半疑な儘で呟いた。大踏切りにやつてきた、彼の前に広い街路が展かれた。
『御苦労さまでした―』彼は自分に向つて、他人に言はれるやうな言葉をつかつた。珍太にとつては自分も他人も区別が判らない程にいまは空腹と疲労で精神が混乱してゐた。線路脇や、線路の枕木の上を歩るいて、彼が此処までやつてくる途中で何回となく線路工夫に叱り飛ばされたことだらう。彼は馬鹿叮嚀に工夫に向つてお低頭《じぎ》をし、工夫の職業とその監督権に顔をたてゝやるために線路を離れて柔順に丘から降りた。工夫の姿が見えなくなると以前のやうに線路の上にのぼつて歩るいてきた。
 珍太は引ずるやうに長着物を着て、チビた下駄を履いてゐた。それに彼にふさはしくないやうな綿入れの下着を着てゐた。この女物の綿入れは途中で畑の中に立つてゐた案山子《かかし》を物色して、案山子のなかで一番富裕らしく着込んだ奴から、綿入れを強奪して、それを着込んだのである。
 手頃な木の枝を拾つてステッキ代りに、体を支へて歩るいた。極度の疲労で痩せた両足は痲痺状態になり前のめりに前進し、奇怪なことには、ステッキが足より先に疲れたやうに思へたので、珍太はステッキを手にもつ苦痛から、これを投げ捨てた。失業者達が線路伝ひに彼と同じやうに東京に向つて歩るいてゆくのであつたが、彼はきまつて後から来た旅行者に追ひ抜かれた。彼はぼんやりした声で、
『兄弟、東京に着いたら、何処か植字工の口があつたらみつけておいてくれろ―』
 と親しさうに話かけた、珍太は誰彼の見境なく、自分の名も言はずに、東京に向ふものに就職口を頼むことで、何かしら気が楽になつた。彼等は珍太にかういはれると、いかにも就職の世話の自信有りげに頷いて通りすぎた。
 プツリと音がして珍太の右の下駄の鼻緒が切れた。彼は綿入れの下着の襟の一部を裂いて下駄の鼻緒をすげた。三里程やつてくると、今度は左の下駄が沈黙のまゝ、意地悪さうにずるずると横緒がぬけてきた、すると彼はその場にじつくりと腰を下ろしてすげにかかつた。
 東京へ入る街道へ差しかゝつた時今度は右の下駄が横緒が両方一度にプツリときれてしまつた。彼は暫らく下駄を引ずつて歩るいてゐたが、鼻緒の切れた下駄を履いて歩るくことが、およそ馬鹿々々しいことに思へたので、下駄をぬいでこれを懐中にしまひこんだ。
 片足は下駄、片足は跣足のまゝ街道を歩るいた。
『一寸待て、何処から来たか』街道口の交番で、珍太は立番の警官に呼び止められた。彼はくどくどと自分の失業の境遇を述べた、警官はただ一語『下駄を履いて歩るけ―』と命令的にいつた。
 柔順に彼はまた懐中から片方の下駄を出して足の先に突かけて交番の前を通りすぎたが、どう考へても鼻緒の切れた下駄を履いてあるく気持になれなかつたので、また懐中にしまひこんで片足を跣足で歩るき出した、すると今度は左の下駄も鼻緒が切れたので、これも懐中にしまひ今は全くの跣足となつてしまつた。
 まもなく東京に入つて街の交番の前で彼は以前と同じやうに警官に呼び止められた。弁解も徒労であつた、彼はそのまゝ本署に連行され監房ホテルに泊らせられたのだ。もう彼是二十日間は泊つてゐるだらう、彼はどうしてホテルに自分が泊らせられてゐるか理由をみいだすのに困つたが、係官はその理由をはつきりと知つてゐた、即ち『下駄は携帯すべからず履いて歩るくべきものなり』といふことであつた。

  カーテン

 夜とは昼が汚れて真黒になつたものだ。泥棒の体を暗黒中に隠すに都合がいゝ。然しまた夜は彼等の敵が、眼の前に立つてゐるといふ危険がそれに伴ふ。掻攫ひ尾島伝吉は、夜は稼ぎにゆかない、夜は怖い、どういふ風の吹きまはしか、珍しく彼は夜の稼ぎに出掛けた。
 そこはお邸街であつた。塀を乗り越えて邸へ忍び込まうとし、塀に手をかけると、塀ではなくて建物の壁であつた。裏口から忍びこまうとして木戸にさはると、裏口ではなく玄関に面した木戸であつた。伝吉にとつては大いに昼間の掻攫ひと調子が違つた。
 彼は次第に大胆になつた。暗闇を恐怖し、昼の明るさを恐れない、いつもの調子に戻つたことを、彼自身で気がつかなかつたのだ、掻攫でなく、大盗になつた自信で、一番明るい煌煌と電燈のついた邸に向つた垣根を身軽に乗りこえて、芝生に立つた。みると大きな応接間の細長い窓が『お前が忍びこむには丁度いゝ窓の高さだよ』と彼を手招いてゐるかのやうだ。窓下にすり寄り、両開きの窓を開き、垂れてゐるカーテンに両手で掴まり、のびあがり部屋の内部を覗いた。室内は彼を落胆させるに充分であつた。見掛けは立派な応接室の内部がガランとして貧乏人の住居を想像させた、盗るものといつては一つもない。彼はしばらく考へてゐた。彼の考へは間違つてゐた、実は室内は贅沢に整理された空虚さであつて、大きな金縁《きんぶち》に何やら青い色が詰めこまれた洋画や、書棚、安楽椅子など、何れも高価でないものはなかつた。
 彼にとつてこの種の調度品は、量《かさ》と重みがありすぎた。彼は結局書棚の上の銀色の装飾的な花瓶を失敬することにきめ、窓から室内に辷り込まうと努力したが、窓は案外の高さで、徒らに彼はカーテンを手で引つぱるだけであつた。彼を不意に驚ろかしたのは、突然何やら重いものが首と胸とを抱きかゝへたことで、彼は驚ろいて尻餅をついた。よくみると彼があまり激しく引張つたので、金具の鐶が千切れてカーテンが、彼の首に落ちてきて、女がショールをかけたやうに首のまはりに引かゝつた。彼は張り切つてゐた力が抜け、何もかもが嫌になつた。カーテンをショールのやうに首にかけたままで、ふらふらと夢遊病者のやうに邸内を出た。彼がその邸をものの数歩も出たと思ふと路は商店街に通じてゐて彼を明るい灯のもとに押し出してゐた。
 夜の明るい人通りの中に立つて、すべての恐怖は去り、つくづくと彼は自分の首にかけてゐるカーテンなるものを見た。絨毯のやうに重い、赤と黄と黒との混ぜ織りで、黄は金色に見え、赤は朱に見え、芝居の緞帳よりも、もつと美しい立派なカーテンであることが判つた。
 このカーテンを腰に捲くと横綱の意匠廻しに見え、斜め肩にかけると立派な僧正に見え、胸にもつてくると飾りのついた軍服にもみえるやうな性質をもつたカーテンだ。彼はそれを首にかけて歩るき続けたが、巡査講習所から昨日出た許りの新参の警官でも彼の胸を飾つてゐるものに、異様を感じないものはあるまい。彼は間もなく捕へられた。調書の上では彼はカーテンを盗んだことになつてゐるが
『俺はけつしてカーテンなど盗んだ覚えはない、カーテンの奴が、俺の首へひつかゝつてきただけだ―』と彼は心の中で調書を強く否定しつゞけた。

  掏摸と彫像

『世間ではよく、トンとぶつかられたと思つた途端に、電光石火に財布を掏られたなどといつてゐますが、嘘ですよ、いくら職業《しやうばい》でも、さうはいきませんよ』と彼は得意で掏摸にも充分な研究的態度が必要なこと、生優[#「優」に「ママ」の注記]しい職業ではないことを力説するのであつた。
 この掏摸も監房ホテルに入つて来たところをみると、何か彼がいふ研究的態度に欠けたところが、彼自身にあつたに相違ない、それは大いにあつた、××デパートの何階の何番売場の何処の棚にある大島絣は、場違ひものであつて、本場の大島絣は何階の何処そこにあると、このデパートは彼にとつて自分の家のやうに品物の置場所をよく知つてゐた。
 或る日六階に上つて行つた、××県産品陳列会が特別に催されて、反物、陶器、貴金属類がならべられてゐた、掏らうといふ気持もなく、ぼんやりと売場の間を歩るいてゐると、其処に彼をたいへん怒らしたものがある。
『こいつの面《つら》は、何といふ傲慢そのものだ』
 彼はその品をみるとムラムラと反抗心が湧いてきた。それは一見純金に見え、実はメッキに違ひない高さ一尺程のナポレオンの全身像であつた。胸を張り、上眼勝に遠くを睥睨し、強く地の上に長剣を立てゝゐる容子は天地自然や人間の運命を一人で背負つてゐるやうな不遜さがあつた。その彫りの硬さが良い出来ではなかつたが、その彫りの硬さや拙さが却つて人間の意志を忖度しない、たゞ立つてゐればいゝだけの置物の境遇にふさはしい、頑固さを表現してゐた。彼は妙にこの彫像に腹が立つたので、慾得を超えて、本能的にそれを奪らうと心にきめた。
 計画的な最初の手を彼はそつと彫像に触れたが『これはいけない』と直感した。
 彼と横斜めの位置に一人の男が立つてゐて、確にデパートの監視員にまちがひなく、然もじつと彼の挙動に注意してゐた、彼はその日は帰つた。
 一晩中彼の頭の中の策戦本部は活動してゐた。翌日彼は売場にやつてきた、意外なことだ、前日にはなかつたのに、立像の台に三本の針金がかけられてゐて、堅く陳列台にとりつけられてゐた。
『ははあ、俺がねらつてゐるのを感づいたな―』
『よろしい、こつちだつて手はあるさ―』
 彼はぷいと子供のやうに不機嫌になつてその日は帰つた。
 翌る日、彼はデパートの地階金物売場で、小さな道具を一つ盗んで、二重マントの下に隠して、六階にあがつて行つた。
 彼はマントの中から、盗んできた針金切断用のペンチを出して、立像の台の針金を一本だけ切つて、その日は帰つた。翌日も一本、翌る日も一本切つた。彼はどうして一度に三本の針金を切らないのだらう、仕事は毫末も急ぐ必要はなしと彼は考へたからで、三日かゝつて切つたことは、針金さへ彫像の台についてゐれば、その一部が切断されてゐても安心してゐるといふ、間抜けな監視者に油断させるためでもあつた。また殆んど衆[#「衆」に「ママ」の注記]人監視の中のこの針金切断の仕事は、瞬間的である必要があつたし、遂あせつて二本、三本を切つて立像の前で時間をかけて失敗をすることを極度に怖れたのであつた。
 四日目最後の決行に出かけた。そして至つて容易に台の上のナポレオン立像は、彼の二重マントの袖の下に隠された。
『やい、ナポレオンの立像奴、貴様の運命は、俺の手の中にあるんだ、家へ帰つて俺は貴様を鋳潰してやらうわい』
 金の立像を抱へて昇降機《エレベーター》にのつたが、その下降につれて陶然と掏摸といふ職業的な恍惚感にひたつた。六階から下りて、四階で沢山のお客がエレベーターに鮨詰めに入つてきたが、不幸な事に彼の二重マントが込み合ふ客の体に揉みあげられて、マントの袖がめくりあがり、其処から燦然として立像が現れた。人々の視線が、ハッとそれに注がれたとき、彼は心に『失敗《しま》つた』と叫んで素早く立像を持つてゐた手を離してしまつた。
『掏摸だ――』と叫んだ者が一隅にゐて、その男の腕が乗客の肩の上から、彼の襟首にのびてきた。彼はその男が前日自分を見詰めてゐた監視人であることを知つて慄然となつた。乗客は混乱に陥り、エレベーターの底を、ナポレオンの立像はゴロゴロと音をたてゝ走りまはり、人々の足がそれ
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