あることを感じたからであり、殊に立派な籐椅子が魅惑的であつた。
 かくして彼女の結婚の最初の予定は変更されたのである。
 翌日から彼女は籐椅子と机とを占領し、夫たる小説家は、チャブ台をもつて執筆机にかへた、意外な事には夫の小説は少しも売れない、その書く小説も余りに純文学的であり、性格もまたこれにふさはしく全く非生産的であることが判り、彼女は激しく幻滅を感じ、従つて夫婦喧嘩の絶え間がなく、金文字の蔵書も、電燈代、瓦斯代にかはり、机も売り払ひ残るところの最後のものが籐椅子一つとなつた時、彼女は離婚を小説家に求めた。
『貴方のやうな、才能なしと一緒に生活してゐても、着物一枚買へやしないわ』
『さうか、別れるのは異議は無いがね、夫婦の愛といふものは、さう簡単に別れていゝものかね――』
『夫婦の愛――、可笑いわ、最初から貴方を愛してなんか居なかつたの』
『ぢや、なぜ結婚したのかね』
『貴方が、もつと経済力があると思つたからよ、お部屋が立派だつたし、本もあつたし、籐椅子なんかおいたりしてね』
『ぢや何んだな、籐椅子と結婚したわけだな』
『さうよ、ついふらふらとね、まさに籐椅子と結婚したんだわ、貴女は籐椅子より機能《はたらき》が無いぢやないの』
『よし、判つた、ぢや籐椅子を呉れてやる、出てゆけ』
『出て行くわよ、立派に女だつて一人で働いて生活してゆけてよ、妾、籐椅子と結婚するわよ』
 区役所婚姻係であるところの本官は――かゝる理由に基くところの、この婦人の籐椅子との正式結婚の届出に接したのであります。
 婦人の意識的なる産児制限は、婦人から母性を喪失せしめ、生活力無き夫との生活は、性生活を営まぬところの、籐椅子との生活と何等変るところなし、とするこの婦人の考へ方は、将来に於ける婦人の結婚に対する、絶望と不安を招来し、真鍮製の大根オロシとの結婚、木製バイオリンとの結婚、石油コンロ、洋服箪笥との結婚等の傾向を示すだらうこと明らかであつて、本官は経済的逼迫が刺戟するところの、あやまれる婦人の唯物思想への転心を憂へるものでありまして、これら無機物との婚姻を、正当として届出を受理するや否や、籐椅子に公民権を与へることの可否に就いて、上司の賢明なる指示を望むものであります。

  『飛つチョ』の名人に就いて

 汽車は崖の間を過ぎ、トンネルを潜り、広い平野を突切らうとして走つてゐた。客車には一団の土工夫の群が乗つてゐた、彼等は東京と函館とで募集されたものだ、彼等は言ひ合はしたやうに髯を蓄へてゐた、彼等の髯は濃く、毛も太い、型も様々で威厳を競ひ合ひ、談笑の間にも、指をもつてそれぞれ個性的なヒネリ方をした。
 彼等にとつて髯は余程重要なものに違ひない、車の中程に腰かけてゐる若い東京から来た男一人だけが無髯であるといふ意味で、この男を他の者よりも惨めに、弱々しく見せた。
 汽車は北海道の奥地へ、奥地へと走つてゐたが、間もなく轟々と水響のする小さなS駅に着いた。
 土工夫の一行は、この小駅に降り、せまい構内を出るとすぐ足下にある谷に懸つてゐる鉄索の釣橋を列をなして渡り、樹林の中に分けて入つた。一行は吉本組××地区飯場で、水力電気の土工工事に働くのであつた。
 若い無髯の土工夫は、飯場に着いてから、三日目に逃げ出さうと企てゝゐた、彼の逃走を感づいてゐたのは、モッコの相手である『源《げん》』といふ男であつた。
 源はまるで弾丸を繋ぎ合したやうな、美事な褐色の体をし、彼の太い八字髯は、大将級の髯の威厳を示し、部屋を圧倒してゐた。
 土工達の争ひが、互に顔を突出しての啀み合に際して、彼等は手を出すに先だつて、まづ髯をもつてセリ合ふ、髯の優劣や誇張的なヒネリ方で勝負のつくものはつけ、つかぬものは、体力で打ち合つて血を流し勝負をつけた。
『おい、若いの、今度部屋に来るときは、俺のやうな立派な髯を生《はや》して来いよ――』
 と源はモッコの引繩を、ヒョイとしやくりあげて、先棒担ぎの若い無髯の土工の力の負担を少くしてやるのであつた。
 四日目の日没頃、この無髯の若い土工夫は逃げだした、二里程逃げて追手に捕まつた。彼はその時隠し持つてゐた猫イラズを、追手の眼の前で嚥み、更に御丁寧にも、釣橋の上から身を躍らして、真逆様に谷の激流に身を投げこんだ。
 一方そのドサクサに『源』が『飛つチョ』した、『飛《とび》つチョ』とは蝗《いなご》のことで、土工夫仲間では脱走の事をさう呼んでゐる、この蝗のやうにみごとに部屋を跳躍してしまつた、さうした出来事は山間の一飯場の出来事として、それを秘密にするとか、しないとかいふ事柄に関係なしに、完全に秘密を保たれた、何故といへば彼等にはさうした出来事は、日常茶飯事に属してゐたから。
 それから幾日目かに、意外にも二人の土工夫は小樽の市街でばつたり行き合つた。
 源は若い男の幽霊ではあるまいかと驚ろいた、若い土工夫は確に猫イラズを嚥みはした、然し彼は次いで渓流の過の中で、鱈腹水をのんだのであつた、そのために却つて腸のなかを洗滌したことになり、岸に流れついて助かつたのだといふ、源はふんと首を傾しげ成程と合点した。
『俺は何処の土工部屋にも、ものの一ヶ月とは働いて居ない、前金踏倒し、飛つチョの名人さ』
 源はかういつて、これから周旋屋へ行き、別な土工部屋へ売られて行くのだといふことであつた、逃走五度さうして舞ひ戻つて来れば、周旋屋から逃走奨励の金時計を褒美に貰へるのさ、と彼は得意になつて八字髯をひねるのであつた。
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監房ホテル


  遙か彼方を眺むれば

 彼は監房での人気者であつた。手を膝の上にのせて頭蓋骨を外して手で捧げてゐる恰好で茫として坐つてゐた。係官に名前を呼ばれて立ち上るときはふだんは茫としてゐるのに似ず機敏で本能的な早さがあつた。
 彼は栃木県の或る町で空腹に襲はれた。彼は盗るものを物色した、彼の執拗な視線の先方に紙芝居屋の自転車が一台、原つぱのまん中に立てゝあるのをみつけた。紙芝居屋は子供を集めに何処かに行つたのだらう、彼は紙芝居の箱の抽き出しから、一円二十銭の金を鷲掴みにした。
 金が入ると彼は身内に勇気が蘇り、曇り日の街を非常な速度で走り抜けた。街端れの屋台にとびこんで、一杯十銭の安ウイスキーを十杯煽つた残りの二十銭で丸パンを買つて、ひよろ/\とした足どりで其処を出た。
 紙袋の中からパンを一つとりだして、アングリと噛みつき鼻声で笑ひ出した。彼の心は幸福なのである。
 宅地を横切る時、意外な敵が現れた。酔つた視線の中の敵とは、彼の足の脹脛《ふくらはぎ》を目がけて土埃りをあげ、頸毛をふくらませて突進してくる一羽の牝鶏であつた。彼はいつぺんに悲しくなり、同時に非常に驚ろいた。全く大胆さを失つて、『あゝ牝鶏が一体どうしよう』と叫び飛び上り、後を見ずに逃げだした。心の中では、牝鶏に追れてゐるといふ自分が何か忍び難いものに感じられた。
 ゆるやかに水が流れてゐる幅の広い河の岸に辿りつき、ボツボツと大粒の雨が水面に斑点となつておちるのを、一つ一つ眺め浅瀬を対岸に渡つた。
 古損木《こそんぼく》になりかけの一本の見上げるやうな高い樫の大木の下までくると彼は猿のやうによぢのぼり始めた。樹の頂上に近い手頃な枝にまたがつて、さて牝鶏めはと下を見おろしたが、牝鶏の影も形も見えなかつた。
『牝鶏でも、巡査でもやつて来い』彼は叫んで強く胸を打ち、遠方に視線をとばすと、意外にも彼の希望通りのものがやつてきた。豆粒程にも小さい黒い点が、腰のあたりで、にぶく白く光ることで剣を吊してゐることがはつきり判る。然も一人や二人ではなく七人の警官が遠くから走つて来るのを発見した。彼は少しも驚かず懐中から紙袋を出してパンにムチャクチャに噛りついた。その時雨は土砂降りとなつて、樹の上の彼は頭から雨を浴び、腹の中まで雨を流しこみながら、腰を枝に押しつけ、片足を前の枝にかけ、右手を帽子の庇の格好に、遠くに向つてかざしながら大声で怒鳴つた、彼の声は渋い良い声であつた。
『牝鶏でも巡査でもやつて来い』かういつてから、頬を伝ふ雨が口に入るのを、こくり、こくりのみこみながら、
『雲か霞か、遙か彼方を眺むれば――絶景かな、絶景かな、春宵一刻千金だア、ちいセイ/\、この五右衛門の眼からみれば価万両、てもよき眺めぢやなアー』と石川五右衛門が、南禅寺の山門から春の日うかうかと屋根に上つて京都を眺めて叫んだ、『楼門五三の桐』の歌舞伎のセリフを一くさり叫んだ。大木の幹の周りを警官がとりまくまで、彼は陶然として豪雨の中で見得をきつてゐた。監房ホテルの中で係官の註文によつて、お人好しの彼は大真面目で再演するのであつた。監房では彼のことを『遙か彼方』或ひは『雲か霞か』といふ綽名で呼んでゐた。

  思索的な路の歌

 彼の家の方角に通ずる路は坦坦としたアスファルトの軍用道路で、彼はこの道が好きであつた。勝手なことを想像して歩るく楽しみから『思索的な路』と彼は名づけた。深夜の路ををりをりバスがヘッドライトの光りで路上を撫で廻し、運転手が空バスを悪戯半分操縦して通るほど人通りが稀であつた。
 彼はその夜も文学の会に出て、したたか酔つて夜更の路を帰つてきた、『司会者は、頭がいゝぞ――。』と彼は呟いた、会費僅か六十銭で酒が出て、とにかく板のやうではあつたが肉の揚げたものが一皿ついた。会では二人に一本の割にビールが出たので、女客や、飲まない客の分までのめた。酒好き党は、結局禁酒党の会費の分にまで割込んだかたちで一本乃至一本半の酒がのめた。
『おゝなんていゝ風だ』と彼は路を千鳥に縫ひ歩るきながら、三本目の電柱毎に立止つては、立つたまゝ冷たい柱に額を押しつけ、そこで二分間づゝ居眠りをして、前にすゝむのであつた。
 ふと見ると広い道路の真中どころに、馬の二倍ほどある黒い動物がじつと彼のやつて来るのを待ち構へてゐた。彼は恐怖しながら接近した、黒いものの形は動物の黒い影絵《シルエット》で影から三米離れたところに怪物の本体がゐた。
『なんてちつぽけな奴だい―』
 彼は怪物を軽蔑した、手の平にのつかりさうな一匹の小犬がクンクンと泣きながら立つてゐた。電燈の光りの加減で倍加されて影が道路に映つてゐるのであつた。
『やい、小犬奴が、わが王者の御通行をはばむとは―さては我に害心ありと見えたり』
 足を踏張り芝居がかりで、彼は小犬の鼻先へ親指を突き出し『怪物消えてなくなれッ』ととりとめもないことを呪ひ出した。
 小犬はだんだんと拳ほどの大きさから鶏卵の大きさに縮まり、ピンポン玉ほどになり、つひに姿を消した。彼は胸をそらし、陽気になつて大きな声で歌をうたひだした。
 不意に道路脇の暗がりから、若い警官が現れてきて呼びとめた。
『ちよつと待ち給へ、君はいま何の歌をうたつてゐたかね―』
 彼はいま歌つてゐた許りの歌を忘れてゐた。若い警官は改まつてたづねた。
『君は現在の政府に不満をもつてゐないかね』
 不意のメンタルテストに狼狽した彼は、かうした場合その場で率直に答へることが却つて有利だと思つたので
『今から約二年前は、政府に不満を抱いてをりましたが、今は全く感謝そのものでありまして―』
『よろしい、ところで一寸本署まで来てくれ給へ』
 彼は思想課調べ室へ呼び出された。
『おゝ、××君、君は革命歌をうたつたさうだね』
 彼はなんて冤罪だ―と心に怒つた。絶対に歌つた覚えはないのだ。思索的な路で、どうして非思索的な革命歌なぞを歌ふといふことがあらう。
 何心なく係官の机の上の紙きれをみた、彼を連れて来た若い巡査の書いた報告書がのつてゐた。
『×月×日午前一時頃××道路に於て警戒中泥酔せる男が放歌高声にて「彼等は常に我等の行動を監視し」と不穏なる歌を歌ひつゝ通行せるを連行せり』云々
 と書かれてあつた。彼に記憶が蘇つてきた、さうだ、ステンカラージンの歌をうたつた筈であつた。

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ドンコサックの群に湧きにし誹《そし》り
『我等』は飢ゆとも『彼等』は楽し
それをも侮《あなど》
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