ーリが』と繰り返し、無言のまゝ『静かにしろ、興奮するな――』といつた意味を示すために、両手で夫人を制しながら、眼は其処に坐れと命ずるのであつた、博士はまるで爆発物でも扱ふやうに、畳の上の新聞を開き、そこを博士の太い人さし指で強く指して『夫人にそこを見れ』と注意するのであつた。
みると開かれた新聞には、おびたゞしい動物の脱毛が散らばつてゐた、夫人の直感は、すぐそれが老犬のプーリのものであることが容易にわかつた、いまこの脱毛が主人の鼻を襲つてクシャミをさせ、眼玉を襲つて涙を出させるやうな強激な事件をひき起こしただけに、夫人の神経も最極度に鋭敏なものになつてゐたのだらう、解雇した女中が博士に喰つてかゝつた反駁の一言がさつと電光のやうに頭をかすめて通つた。
『ぢや、旦那さま、プーリが、犬が何故新聞を読まないので御座いますか――』
といつた女中の声、そのとき博士は
『何、犬が新聞を、わしはまだそれは研究しとらんよアハハハ――』
と哄笑した声を思ひ出した『あゝ、プーリが新聞を読んでゐる――』と夫人はその場にぺたりと腰をつき、まるで悲しみにちかい驚ろきの表情で、手で強く顔を発作的に押しつけ始めた、博士は部屋の中を、あちこちと同じやうに往復をしてゐたが、まもなく夫妻は時が経つといつしよに、幾分気持がをちついてきた、
『プーリが毎朝新聞を読んでゐるといふことは、到底信ずることができない、何のためにそれをするのか、女中が新聞を読むまだそれはわかる、犬が読む、それは判らん、奴等はどういふ文化的な欲望からそれをやるのだろうわしはそれを確かめなければ――』
と博士は言つた、
博士は翌朝、まだ暗いうちに、寝室からさつと這ひ出した、玄関には犬のプーリがゐる、親戚から貰つてきたもので、もう彼是十歳にはなるだらう、プーリの、犬小屋は、最初庭にをいてあつたが、彼は歳をとるとともに寒がりになつた、それに用心のためとで玄関の中に犬小屋をいれるやうにしたのであつた、博士はそつと玄関に向つて忍びあるきながら、猫が眼鏡をかけて新聞を読んでゐる図のことを思ひだした
『老犬だから、或はあいつも化けるころかも知れん――』
博士は玄関のタタキを見下ろすために、障子の傍に接近し、人さし指を口でしやぶつて、その指先をぬらした、その指で障子紙を押してそこに穴をつくり、じつとそこから玄関のタタキを眺きをろした。
非常に待ち遠しい長い時間であつた、まもなく新聞配達が、玄関の戸のすきまから新聞を差入れる、カサ/\といふ音がしたと思ふと、殆んどその紙の音と同時に、犬小屋の中で寝藁の騒ぐやうな音がした、プーリがごそごそと小屋の中から現れた、博士は呼吸を凝らしながら、プーリの動作を見逃すまいとして、穴からのぞいてゐた。
犬は高慢さうな顔を高くあげて、周囲をひとわたり眺めまはした、それから片足で新聞を軽く押へ、片足でちよい、ちよいとさはることで、新聞の小さな畳みは、わけもなく大きく拡げられた。
次は、犬にとつても困難な仕事らしかつた、犬は第一面の広告欄をちらりと一瞥したきりで、その第一面の紙の端に口を近よせ、まるで長いことまるで接吻をしてゐるやうな姿でゐた、するとぱらりと大きく頁が開かれるのであつた。
犬は強く空気を口で吸ふことで、一頁一頁開くことをやつてゐるのだ、――と博士は観察を下した、プーリは第三面の政治欄は、殊に熱中的に熟読してゐた、何かの仕事を読んで感動したときだらう、片足をもちあげて頭をぼりぼりと引掻いた、すると頭から脱気[#「脱気」に「ママ」の注記]が新聞の上にばらばらと落ちるのであつた。
犬は大部分をこの政治欄を読むことに費やした、三面記事のトップを、軽蔑的に、ちらりとみるかと思ふと、下段の黒枠つきの死亡広告を読むときは、犬は一層フフン、フフンと軽蔑的に鼻を鳴らすのであつた、ラジオ欄、娯楽欄は黙殺、家庭欄は興味があるらしく、料理に関する記事は熱心に貪るやうに読んで、こゝでは感極まるといつた声でクンクンと鼻を鳴らすのであつた、博士が後に調べて判つたのであつたが、その日の新聞の料理献立表を彼は愛読してゐたらしく、そこには『豚肉シチュー煮、白菜ごま酢』の取合せ献立と『牛肉ソーテ』の料理法がのつてゐた、
『肉を五切に切りわけ、塩、胡椒をふり、フライパンにバタをとかし、強火でその肉を焼く』云々と書かれてゐたから、プーリはそこのところを読んで、鼻を咽喉とをたまらなくなつてクンクン鳴らしたものと思はれる。新聞面のうちで全然顧みない欄があつた、それは四面の就職欄であつた。
博士は障子の穴から強い視線をプーリの動作に注いだ、犬は一通り新聞を読み終ると、もとのやうにそれを畳みだした、実に上手に畳むのであつた。博士は咳やいた、
『「犬はなぜ新聞を読まないのか――」といふ、女中の質問に、わしは答へることができなかつた、アハハと笑つただけであつた、ところでプーリは文字を解してゐるので、しかしすべての犬が文字を解してゐるとは信じられない、いやいや或は人間の知らない処で、すべての犬共が新聞を読み、時局を論じてゐるのではないだらうか――』
そのとき新聞を畳み終つたプーリは、新聞をその場にをき、犬小屋に再びもぐりこむために立ちあがつた、博士はもうたまらなくなつて犬にむかつて質問を発しないわけにはいかなくなつた、博士の学者的良心が眼を覚ましたのだらう、
『すべての犬はなぜ新聞を読まないのか――』
と叫んだ、プーリは穏やかな表情をして、じつと博士の覗き穴をみつめてゐたが、その顔は、曾つて博士がプーリの表情の種類を知つてゐる限りでは、全くたゞの一度も見かけなかつたところの尊厳で、厳粛にみちた顔であつた、そしてプーリは低い声で何事かを答へた。
この聴きとりにくい声を聴かうとして博士は焦らだつた、
『先生――、犬はなぜ新聞を読みませんか――』
と博士はプーリに向つて、再び質問を発した、途端に博士はすべての精神も肉体も財産も肉親もあらゆる所有を失つたやうな寂寥に襲はれて、『先生』とはなんといふこと葉だ、しかもそれは犬が博士に向かつて言つたのではなくて、博士が畜生である犬に向かつて言つた言葉であつた、博士は学問的主従関係の上でも、先輩にむかつて、いまだかつて××さんとは呼んでも、『先生』といふ敬称で呼んだことは、ただの一度もなかつたのであつた、犬に向つて先生――といふ言葉が無意識に飛び出してしまつたのだ、博士に『犬はなぜ新聞を読まないか――』と女中風情に研究の主題を与へられながら、それにはすぐ答へられなかつた上に、いままた犬畜生を先生と呼んで自己を卑しくしてしまつた、学問の権威を失墜させた、『あゝ』(四字不明)[#「(四字不明)」は本文中の注記]から思ふと、ススリ泣きに似た感情が博士を捉へたのであつた、博士はこゝを千どとさながら畜生の学徒にむかつて人間の学徒が戦ひをいどむかのやうに、戦士のやうな努力を、犬に対する質問のために払はうとしてゐた、すべての犬が果してプーリのやうに文字を解してゐるとは限らないといふ、犬が文字を読むことを否定しようとして、博士は覗き穴から叫んだ。
『先生、犬はなぜ新聞を読まないか――』
と博士は覗き穴から再度プーリに質問を発した、そのとき犬は明瞭な声で、
『文字を知らないからさ――』
とぶつきらぼうに答へた、このとき博士はとつぜんどこかに隠れてゐた人間の優越感と、権威とが目ざめたのであつた、博士はガラリと玄関の障子を引あけると同時に割れ鍋を叩くやうな大きな声で犬にむかつて吐鳴つた、
『この化犬め、出てうせろ――』
するとプーリはみるも惨めに尻尾をくるりと尻の間に挾みこんだと思ふと、前肢で玄関の戸を開いて、出て行かうとしたが鍵がかゝつてゐて開かなかつた、博士は玄関の土間へ裸足のまゝとびをりて、ガチャガチャいはして鍵をはずして、戸を荒々しく開けひろげると、プーリは博士の股の間をするりとくぐりぬけてあわてゝ戸外にとびだした、さうして博士の家では、新聞を読まうとした女中と、新聞を読んでゐた犬とを解雇した、
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社会寓話集
日本的とは何か―の行衛
小さな島に沢山の猿が棲んでゐた、こゝの猿達は『退屈』といふことを知らない、なぜなら彼等は話題を失つても、叫ぶことを忘れないからだ、彼等はキャッ、キャッと叫んで一日中島の中をかけまはつてゐた、ところが猿達を沈黙させる大事件が起つた。
或る日、大暴風雨が島を襲つた、草は倒れ、岩石は飛び、樹木は空に舞ひ上り、猿達の住居と遊び場は全く奪はれた。
島には三本の樹より残らなかつた、一本の樹は風のために枝を裸にされて、たつた二本の枝より残らなかつたし、二番目の樹には二本の枝きり、三番目の樹には六本の枝、つまり、二、二、六計十本の枝より猿達のとびまはる枝がなくなつた、猿達はその暴風雨のことを、枝の数で呼んで、二、二六事件と言つてゐた。
この事件があつて以来、猿達の叫び声は、恐怖のために身ぶるひし、一倍元気のよい大猿も低い声で叫ぶやうになり、わけて常日頃元気のない猿などは、沈黙してヒイヒイと泣くやうな声より出すことができなかつた。
ところが突然一匹の猿が大声をあげて叫びだした。
『諸君、我々はあの位の暴風雨によつて沈黙してゐるべき時ではない、大いに叫び、大いに遊ぶ時である、我々は、我々の住んでゐる島がどんな島であるか、はつきりと知らねばならない―』
そしてこの猿の音頭取りで新しい遊戯が始まつた。
三本の樹を枝から枝へ、とび移る遊戯であつた、樹は波の打ちよせる崖際に生へてゐて、樹の根元は絶えず洗はれ、樹はいまにも倒れさうに傾いてゐた。
遊戯といふのは、猿達は第一の木に飛び移るとき―『日本』と叫び、そこから次の木に飛び移るときには『的とは―』と叫んだ、そこから第三の樹に移るときには『何か―』と叫んだ、そして猿達はいり乱れて、『日本』『的とは』『何か―』と口々に叫びながら枝から枝へとび移つた。
しまひには遊戯が混乱して、『的とは』『日本』『何か―』となつたり『何か、的とは、日本』と前後したり、めちやくちやな遊びになつた。
『諸君、落着きたまへ』と哲学的な猿が一同を見廻した、この状態では何時までたつても『日本的とは何か―』といふ疑問は解決できないから、一本づつの樹で、ひとつづつの問題を解かうではないかと提案した。
つまり第一の枝に飛び移るときに『日本とは何か―』と叫んでしまふことであつた。次の樹では『的とは―何か』と叫ぶのであつた、が、三番目の樹に移つたとき『何かとは、何か―』と叫ばなければならなくなつたので、問題が一層わけがわからなくなつてしまつた。
すると樹の下の波打際で、大笑ひをするものがあつた、猿達がこの笑ふものの正体をみると、それは波の音であつた。
猿達は怒りながら質ねた。
『笑つたのはお前か、お前は何者だ―』
すると
『僕は波だ、スペインの海岸からたつたいま君達の日本の岸へついた波だ』
つゞいて次の波が言つた。
『僕は支那の海岸から、日本の岸へ着いた波だ―』
つづいて浦塩から着いた波や、アメリカから着いた波達が答へた、この国際的な波の笑ひは次第に高くなつていつた。
果樹園のアナウンサー
果樹園に大きな望楼が立つてゐた、この望楼は、果樹園の所有者が建てたもので、この国でいちばん声のきれいな、声の高い男が選ばれて、沢山の給料をもらつて、雨の日も風の日も、この望楼の上に立つてゐた。
このお喋《しやべ》り男は大きな声で叫んだ。
『こちらは果樹園の望楼でございます、只今北風が次第に強く海の方から吹いてまいります、みなさん木が倒れぬやう御注意下さい―』
『こちらは望楼でございます、たいへん果実に虫がつくやうでございます、リンゴには紙袋をおかけ下さい―』
時には
『××さんの柿が熟れました、只今三個落ちました、これは本年最初の熟柿でございます』
などと大きな声で叫ぶのであつた。
このお喋り男は雇はれるとき、主人との約束で、自分のことはしやべつて
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