呉れる怪しい家だけであつた。
彼は発明品への投資者を求めながら、己れの才能に反する万引や窃盗をして歩るくのであつた。
暗黒中のインテリゲンチャ虫の趨光性に就いて
暗黒中の『下等動物の趨光性学説に就いて』といふ興味ある林泉太郎博士の研究発表の講演は終つた。
人々は講堂から控室へ通ずる細長い廊下へでた。廊下はさして暗いとはいへないが、しかし三時間もの長い講演の疲れと、学的興味で人々の頭はいつぱいになつてゐたし、また講演の性質上、廊下の暗さが人々を運命的な感傷にとらへたのであつた。
当日の講演が如何に感動的であつたかといふことは、聴講の学者達がうす暗い廊下を満足に前進することができない程、興奮してゐることでもわかるのであつた。
吉本博士は、たえず人さし指で廊下の壁にふれ、頭を垂れて、非常にゆつくり歩き、そしてじつと立止つて思索にふけつてゐる時間の方が長かつた。潮博士はふかく腕を組み、軽く靴を鳴らして、三歩前進しては、体をくるりと一廻転するのであつた。
人々がみな去つてしまひ、がらんとした講堂の中に、野村長命博士が腑抜けのやうに、前方の黒板に、講演者がチョークで書きのこして去つた、直線や、電光形や、渦巻きやの白線を凝然とみつめてゐた。博士の洋服のやせた膝の上に、ぽとりと小さな滴が落ちた。滴りは博士のめくれた唇の端から粘液となつてだらしなく膝の上に落ちたものだ。しかし決してヨダレと速断することは出来ない、なぜといつて両眼から液体が二条の帯のやうに頬を光つて下り、鼻下の薄い髯の中にいつたん収容されてから、口に流れ込んでゐることを発見出来たから、膝の上に落ちた液体は涙でなく、又鼻水でなく、よだれでもなく、これらの三つのものが化合したものといへるだらう。
野村博士は泣いた、それは無理もない、林泉太郎博士の今回の研究発表によつて、野村博士の従来の暗黒中の幼虫の光線に対する反応が、光度、感受性、内的傾向の三つよりなるとする三大原則は脆くも打破られたのであつた。
野村博士は腰掛けを立ちあがつて黒板に近づき、講演者の描いた図式を、消したり、かき加へたり始めた。
これまで実験に供してゐた下等動物は、梅毛虫、ヨトウムシ、モンクロシャチホコ等であつたが林泉太郎博士は新らたにインテリゲンチャ虫といふ新種を発見したのであつた。暗黒の箱の中に、これ等の下等動物を入れて、きまつた時間だけ這ひまはらす、之等の下等動物の行動は、箱の底に敷かれた科学的な媒紙に虫の歩いた足跡がそのまゝ白く記録される、暗黒中の梅毛虫は、ただぐるぐると円を描いてゐた。ある虫はイナヅマ型に光りを求めて足跡を媒紙の上に残してゐた。そして梅毛虫より、はるかに感受性の鈍な愚かしいヨトウムシ、こ奴は、平素地下又は植物の茎の中に潜入してゐるのだが、より下等なこの動物が、意外にもいかにも自信ありげに直線的にすすんでゐるのだ。
暗黒中に今度は光線を一ヶ所、又は二ヶ所あるひは交互に点滅させてから、その光りを求める行動を実験するのだ。
博士は黒板に倚りかかり、長い吐息をしてからほそぼそと呟いた。
『ところでどうぢや、わしの負けぢや、インテリゲンチャ虫は、光の中に開放されても光刺戟によつてかへつて行動が抑圧されて、同じ処をぐるぐるまひぢや、わしは敏感な知識人だ、だがどうぢや、わしの学説はぐるぐる舞をやつてゐる、光、希望、直線、暗黒、宿命、ぐるぐるまひ、あゝわしの人生はまさに後者ぢや』敗北者野村博士は突然激しく、白墨を持つた手を痙攣させた、何か博士の体に異状が起つたにちがひない、博士は遠くに、夢のやうに笑声をきいた、片足の膝頭は弾丸のやうな音をたてゝ床板にうちつけられ、博士のからだは脆く崩れた。
深海に於ける蛸の神経衰弱症状
有名な潜水鉄球に依る探海家であり、且つ医師であるロバトスン博士は、八百米の深海に助手と共に降りて行つた。
前面硝子を通して、一尾の奇怪な軟体動物を発見した、博士は早速助手に命じて、鉄球内から照光器の光りを、この動物にむけ、照らし出させ、しきりにこの深海動物の動作を視察したのであつた。
この動物は、一個の頭と四本の足とをもつてゐて、何か枕様の物体に、その頭をのせ呻吟してゐる風であつたが、博士はこの動物が蛸であるといふ見極めをつけるのに、かなり長い時間をかけなければならなかつた。
『博士、蛸にしては肢が四本よりありませんが――』
『××助手、彼奴には立派に八本の足があつたのさ、よく注意してごらん、ほら根元から千切れた痕が四ヶ所あるだらう』
『ぢやあ、何かに喰ひ千切られたわけですか』
『さうだよ、鱶か何か鋭利な歯をもつたものにねつまり深海に於ける階級闘争に負けたのだよ』
『ほう、そして何故あゝ身悶へして転んで許りゐるのでせう』
『つまり頭が大きすぎるのだよ
前へ
次へ
全47ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング