仕事はなかなか苦痛であつた、洋傘の柄を二人で握り合ふことの容易でないことを思つた、それに私は彼を自分よりも多く雨に濡らしてゐるのだ、その上に私は激しい欲望が湧いてきて、これらの非常に円満な謙譲や、生温かい友愛や、を憎みだし軽蔑しだした、動物的な本能は、彼からその傘を奪ひ去るか、彼にまつたく傘を与へて自分はズブ濡れで歩るくか、どつちかに決めなければ気が済まなかつた、私はジリジリと柄を手元に引き寄せる、あつけない程柔順にその柄は引き寄せられる、然しあるところまで来ると彼はその柄をピッタリと押へる、それから彼の利己心は、次第に私の手元から傘を引戻さうとするその彼の感情は醜いものではなくて、常識的すぎるほど世間なみなものだ。彼はそして私の傘の柄をもつことにさへも、このやうに激烈な気持をもたなければ気が済まない性格を不思議に思ひ、笑つてでもゐるかのやうであつた。
 雨の日の電車線路は、鈍重な刃物をおもはせた、ここの十字路を踏み切るときには、洋傘を彼に手渡し、私は彼にはお構へなしにどんどん駈けて向ふ側に渡り、商店の雨覆の中に入りこんで彼のやつて来るのを待つた。雨の日の轢死、私はそんな恐怖にとらはれてゐた、雨の日の轢死は私の血を跡形もなく流し去る、そして体は散々になつて、その附属物のかならず一品を失はふ、例へば舌とか足の親指とか、甚しい時には頭が夜更けの車庫まで運び込まれて、検車係りの安全燈に照しだされたりする、私はそんな目に逢ふのは嫌だと思つた、往来する電車は何時も見る電車よりも、少しく大型に脹れて見えた、乗客もみな鳥の翼のやうに、だらりと袖をさげてゐた。
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諷刺短篇七種


  盗む男の才能に関する話

 痩せて背の高い男が、夜の縁日を歩るいてゐた、賑やかな人通りの群から、最も眼の穏やかな人間を選むとすれば彼だらう。眠つてゐるとも見える彼の眼は、糸を引いたやうにしか開かれてゐない。
 彼は群集にまぢつて、縁日の玩具にながめ入つてゐた、其処の金盥の水の上には、三艘のブリキ製の舟が、小蝋燭をもやすことで、物理的に走り廻つてゐた。
 彼は玩具を眺めながら、悲しさうな表情をした、実はこの玩具の考案は、この男がしたのであつた。
 彼は二度目の、窃盗、文書偽造の刑期を勤め上げる間に、刑務所の中での退屈な時間をこの玩具の考案に費したのであつた。出獄した彼はこの考案を金にしようとしたが、思ふやうにいかず、前科者の故で職もなく、再び生活に窮した彼は、癇癪を起し、彼にとつて最後的な生活方法である忍びの術に還つたのであつた。
 三犯目の年貢を収めて、彼はつい昨日刑務所を出た許りであつた、彼の刑期中に誰の手からともなく、彼の考案とそつくりのブリキの舟が縁日に売り出されてゐるのを、彼はいま発見したのである。
 盥の中の三艘の舟は忙がしさうに走り、折々船端を打ちつけ合つて、盥の岸に停つた、夜店の玩具売りの男は、一刻も安息をゆるさないといつたふうに、指で邪険に舟を岸から突き離した。
 彼もまた突き離されたやうに、夜店の人の群から離れて歩きだした。
 今度も刑期中に彼は三種の考案をしてきた、一つは『自動食器洗ひ』で他は『地引網の浮子《うき》の改良』と『魔法の折紙』と彼が名づけたものであつた。魔法の折紙とは、一つの基本的な折方から出発して、様々の形に三十七種まで麒麟やら、扇やら、機関車などに変化するもので、彼は獄中で差入れの塵紙を根気よく折り返して考案したのだ、発売したら子供達が喜びさうなものであつた。『自動食器洗ひ』は、ハンドルを廻すことで、沸騰した湯のいつぱいな円筒の中で食器は洗はれて飛び出す、すべての家庭婦人、殊に炊事の為に、荒蕪地のやうに荒れ、ヒビ割れた手をもつてゐる女中達が、彼の発明品が世に出ることで救はれることを、彼自身信じてゐた、然し彼は之等の有益無益の発明考案を、商品化することが出来なかつた。
 社会は――刑期が満ちて当人の罰が終つて仕舞へば、全然もう放うたらかして仕舞ふ、即ち、当人に対してその最高の義務の生じようといふその瞬間に、全然彼を見捨てて仕舞ふとオスカア・ワイルドが受刑者を哀れんだ言葉があるが、彼も一歩刑務所を出るや否や、社会の義務は彼を離れた。
 途端に彼の住所へ顔見知りの刑事が『おゝ居るか――』と訪れてきた、彼は更に新らしく監視されるといふ義務を負はなければならなかつた。
 彼はいま懐中から手帳を取出して、歩きながら書いてある事柄を調べ始めた、手帳には『お召羽織二十歳位花模様』『男帯綴織風のもの』『三十五六歳向ショール茶色』『上等ウヰスキイ三本贈答用』などと書かれてあつた。
 彼はこれらの品物を、デパートの各階から選択して盗むのである、彼の出獄を歓迎するものは、彼の盗品を喜んで引受け金に代へて
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