/″\愛憎を尽かしてゐるのであつたが、このミシンの巧さが、妻にとつては唯一の取柄といつたものであつた。
――ミシンを踏む彼女。
その時こそ、何時よりもまして聡明な場合の彼女であつた。
――おい、自分の指を感心に、縫はないな。
調子のよい響をたてゝ、ミシン台にゐる妻にかういふと、
――それほどに、馬鹿ぢやないわ
とチラリと軽くふり返つた。
だがこの聡明な仕事も、南瓜の花の真盛りのころから、ばつたりと止してしまつた。
炎天が幾日も、幾日もつゞいたその後に、今度は雨が幾日も、幾日もつゞくのであつた。
すると妻は、急に私にむかつて口小言をいひはじめた。
――ほころびがあつたら、早くいつて下すつたら、いゝぢやありませんか、出掛にばかりいはないでね。
――男が、どこが破れてゐるの、ほころびてゐるのと、いち/\注意してゐられないよ。そんな仕事が女の仕事ぢやないか。
妻は私の手から、着物をひつたくつて、その布地を歪ませながら針を運ばせ、不平さうな顔をするのであつた。
――まあ、こんな下駄の減らしやうて、ありませんわ、上手に減らすもんですよ。もつと平均にね、坂になつてるぢやありませんか。
玄関口に女は下駄を揃へながらかういふ。
私は内心、いま/\しく感じ、
――下駄を減らす男は純情さ。履物を気にして歩いてゐる男に、ろくな男がありはしないよ。
私はベッと地に唾をして外出するのであつた。
(二)
何処の家庭でも、夫婦喧嘩の材料といつたものは、さう眼あたらしいものが次々と、湧いてくるものでもないやうに、二人にとつてもその種は尽きた。
その種の尽きた時、どうしても争はねば、気が済まない場合には果ては食物の嗜好のことが、唯一の争ひの題材となつた。
――俺は酢の物は大嫌ひだと、あれ程いつもいつてゐるではないか。
――でも。
――何がでもだ。調味料として、我々の家庭には、酢は絶対に使つてはいかんよ。
私はホテルの支配人のやうに、肩をいからして、この料理人にむかつて命令をしたのであつた。妻は一瞬その眼をほがらかにして、
――でも酢の物を喰べると、骨が柔かになるといひますわ、
と答へるのであつた。そして妻は、支那人の曲芸をやる者は、酢を飲んでゐること、平素酸性の多い食物をとつてゐると、たしかに身体が柔かになり、したがつて女の容姿《すがた》がよくなること。婦人は身嗜みとして、平常から食物の上にもこの位の細心な注意が要すること。などゝ急に雄弁になつて、彼女一流の理屈を述べたてた。
――蛇のやうに、醜悪な姿態《しな》をつくつて、街を歩いてゐる女をよく見かけるが、あれなどは酢を飲みすぎた女だな。
私は思はず苦笑して、妻の顔を見あげたのであつた。
晩飯には、彼女は、ないことに変つた調理で私の舌を喜ばした。
それは牛肉に胡椒を振かけたものであつたが、脂肪がすつかりぬけてしまつてゐて、サラ/\とした、淡白な味のものであつた。
精一杯に、その肉の料理をほめそやすと、彼女は、得意さうにその調理法を語るのであつた。
――いかにも、お前らしい、ふざけた料理法ぢやないか。
私は、呆れ果てゝ、その皿の上にのつた肉の数片を眺め見た。
肉を何時間となく気永に脂肪のぬけきるまで、煮沸したものだといふ。
精分の多い煮汁はみな捨てゝしまひ、肉の煮出し殻を皿に盛つたものだ、かうした些細な食膳の変化にも感激するほどに、妻の献立表は、毎日のやうに単調を極めてゐたのであつた。
食後、私は何かしら彼女と青丸との心を浮き立たせなければ、申訳のないやうな気持になつた。
晩酌の酔ひも手伝つて、私は着物をぬぎ捨て、猿股ひとつになつて、青丸の前に、ワンワンと犬のほえる真似をして、座敷中を四ツんばいになつて駈廻つた。
――さあ、今度は狼だ。
うなり声をたて、坐つてゐる青丸の頭上を、幾度も跳躍した。
青丸は上機嫌で、声を立てゝ可愛らしく笑つた。
妻はたいして愉快でもないらしく、折々青丸に調子を合せて、苦笑するにすぎなかつた。
――今度はロシア舞踊だ、ニジンスキイもはだしの旋律舞踊だ。
青丸にむかつて、かういつて踊りだしたが、小さい青丸は私の舞踊のよさ[#「よさ」に傍点]は到底理解出来ないので、私は実は彼女にむかつての公開であつたのだ。
踊りながら、猿股のひもを引くと、猿股は波を辷る漁船かなにかのやうに、冷たい触感で落《おち》、まつたくの素裸となつた。腹部のあたりに、白々とした寒い風がまとはりついた。
三年前の彼女であれば、男の素裸を見て、驚死したかも知れないが、現在の彼女にとつては、大してその気持を引きたゝせることでもなかつた。
妻はにこりともしなかつたので、私は羞恥に似たものを感じ、大いそぎで、猿股をはき、浴衣《ゆか
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