わたし》のところには神棚もお仏壇もありませんので、お札を頂戴してお粗末になつてはかへつて勿体ないと思ひますので。
私はかう台詞を妻に教へこんであるのだ。
『天照皇太神宮』や『稲荷大明神』や『イヱスキリスト』などのお札売はチ※[#小書き片仮名ヱ、428−6]ッと忌ま/\しさうに舌打をして帰つてしまふのであつた。
二人のマルクス(私達夫婦はこの二人の青年をマルクスと呼んでゐた)
二人の青年が、私の家の玄関口を訪れたとき、妻は例の台詞でこのマルクスのお札売を追払つてしまはうとしたのであつたが、二人のマルクスは、一足飛に室の中に襲ひかゝつて来て、盛んにしやべり立たのであつた。
一人のマルクスは瘠せこけてゐた。いま一人は肥えてゐた。
肥えた方のマルクスの懐が妊婦のやうにふくらんでゐた。
肥えたマルクスは、懐中からそのふくれたものを取出て
――ぢやらん、ぢやらん、ぢやらん。
それはタンバリンであつたのだ。
しきりに鈴を鳴らし始ると、いま一人は古ぼけた皮の鞄の中からポスターを取出て、私の室中にその毒々しい極彩色の絵や統計の描かれたものをべた/″\貼はじめた。
――なんといふ遠慮のない人達でせうね。
さすがに妻は驚いた様子であつた。
彼等が帰ると、私も議論に疲れそして彼等のいつてゐることが、いかにも真理のやうに考へられて、瞬間興奮を感じた。
しかし彼等が、霰に頭を打たれて、暗いなかに立去つてしまふと何もかも馬鹿らしくなつてしまふのであつた。すべてが冷静に、憂鬱なもとの姿に還つてしまふ。
その翌日も、その翌日も、二人のマルクスは私の家をつゞけさまに襲つた。
そして火のように熱心な態度で私を説き伏せようとしたのであつた。
鴉、犬、牛、そして二人のマルクス。
私の静寂な家を訪ねるものはこれだけであつた。
凡太郎は、いつの間にか二人のマルクスにすつかり馴れてしまひ、抱かれて笑顔をみせたり、ついにマルクスの膝の上に小便をひつかけたりした。
――我々の聖なる父、マルクスは。
彼等は賑かに聖なる父の名を呼つゞけた。
凡太郎は円い眼をして、この若い来客の、議論の口元の動くのをじつと凝視してゐた。
足を踏み鳴らし、そして又もや霰に、頭を打たれながら、二人の客は、暗い中を帰つた。
マルクス主義が、我々夫婦の実生活にどんな役割を演じようとするのか、それは我々家庭にとつて『摺鉢』や『大根おろし』よりも不用な物。愚にもつかない信仰であるのだ。
私は不意に形容の出来ない笑ひがこみあげてきた、次に滑稽な不安が頭をもたげた。
凡太郎の次の言葉。突然凡太郎が『マルクス』などゝ叫びだしたなら、私達夫婦はどんなに吃驚するであらう。といふことであつた。
その時には、私は観念し、凡太郎を蜜柑箱に入て、河に流してやるばかりだ。
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泥鰌
(一)
夏に入つてから、私の暮しを、たいへん憂鬱なものにしたのは、南瓜《かぼちや》畑であつた。
その葉は重く、次第に押寄せ、拡げられて、遂に私の家の玄関口にまで肉迫してきた、さながら青い葉の氾濫のやうに。
春の頃、見掛は、よぼ/″\としてゐる老人夫婦が、ひとつ、ひとつ、南瓜の種を、飛歩きをしながら捨るやうにして播いてゐた。
数年前まで、塵《ごみ》捨場であつたその辺は、見渡すほど広い空地になつてゐて、その黒い腐つた、土塊は肥料いらずであつた。
セルロイドの玩具や、硫酸の入つてゐた大きな壺や、ゴム長靴や肺病患者の敷用ひてゐたであらうと思はれる、さうたいして傷んでもゐない、茶色の覆ひ布の藁布団などに、老人夫婦は十日間程も熱心に鍬をいれてゐた。
鍬が塵埃の中の瀬戸物にふれると、それは爽かな響をたてた。
老人達の仕事を、書斎でじつと無心に眺めてゐる、私の感情をその瀬戸物にふれる音は、殊に朗かなものにした。
種ををろしてから、三月と経たないうちに、老人夫婦は、私の書斎からの、展望をまつたく、縁[#「縁」は「緑」の誤植か]色の葉で、さいぎり、奪つた。
夏の地球は、暖房装置の上にあるかのやうであつた、老人の播いた南瓜の種も、みごとに緑色の葉をしげらし、この執拗な植物は、赤味がゝつた黄色の花をひらいた。
その花を、たくましい腕のやうな蔓がひつ提《さげ》て、あちこち気儘にはひ廻り、そして私達の住居を囲み、私達夫婦の『繊細な暮し』を脅かしはじめた。
この南瓜畑に、取囲まれながら私達は、結婚後三年の夏を迎へた。
妻は、シンガーミシンを踏むことが巧であつた、青丸《あをまる》には、いつもあたらしい布地に、美しい色糸でさ/″\ま[#「さ/″\ま」は「さま/″\」の誤植か]な図案の胸飾をした、涎掛を、つくつてゐる。
妻の愚鈍さに、二年程前からつく
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