げ捨てた。失業者達が線路伝ひに彼と同じやうに東京に向つて歩るいてゆくのであつたが、彼はきまつて後から来た旅行者に追ひ抜かれた。彼はぼんやりした声で、
『兄弟、東京に着いたら、何処か植字工の口があつたらみつけておいてくれろ―』
と親しさうに話かけた、珍太は誰彼の見境なく、自分の名も言はずに、東京に向ふものに就職口を頼むことで、何かしら気が楽になつた。彼等は珍太にかういはれると、いかにも就職の世話の自信有りげに頷いて通りすぎた。
プツリと音がして珍太の右の下駄の鼻緒が切れた。彼は綿入れの下着の襟の一部を裂いて下駄の鼻緒をすげた。三里程やつてくると、今度は左の下駄が沈黙のまゝ、意地悪さうにずるずると横緒がぬけてきた、すると彼はその場にじつくりと腰を下ろしてすげにかかつた。
東京へ入る街道へ差しかゝつた時今度は右の下駄が横緒が両方一度にプツリときれてしまつた。彼は暫らく下駄を引ずつて歩るいてゐたが、鼻緒の切れた下駄を履いて歩るくことが、およそ馬鹿々々しいことに思へたので、下駄をぬいでこれを懐中にしまひこんだ。
片足は下駄、片足は跣足のまゝ街道を歩るいた。
『一寸待て、何処から来たか』街道口の交番で、珍太は立番の警官に呼び止められた。彼はくどくどと自分の失業の境遇を述べた、警官はただ一語『下駄を履いて歩るけ―』と命令的にいつた。
柔順に彼はまた懐中から片方の下駄を出して足の先に突かけて交番の前を通りすぎたが、どう考へても鼻緒の切れた下駄を履いてあるく気持になれなかつたので、また懐中にしまひこんで片足を跣足で歩るき出した、すると今度は左の下駄も鼻緒が切れたので、これも懐中にしまひ今は全くの跣足となつてしまつた。
まもなく東京に入つて街の交番の前で彼は以前と同じやうに警官に呼び止められた。弁解も徒労であつた、彼はそのまゝ本署に連行され監房ホテルに泊らせられたのだ。もう彼是二十日間は泊つてゐるだらう、彼はどうしてホテルに自分が泊らせられてゐるか理由をみいだすのに困つたが、係官はその理由をはつきりと知つてゐた、即ち『下駄は携帯すべからず履いて歩るくべきものなり』といふことであつた。
カーテン
夜とは昼が汚れて真黒になつたものだ。泥棒の体を暗黒中に隠すに都合がいゝ。然しまた夜は彼等の敵が、眼の前に立つてゐるといふ危険がそれに伴ふ。掻攫ひ尾島伝吉は、夜は稼ぎにゆかない、夜は怖い、どういふ風の吹きまはしか、珍しく彼は夜の稼ぎに出掛けた。
そこはお邸街であつた。塀を乗り越えて邸へ忍び込まうとし、塀に手をかけると、塀ではなくて建物の壁であつた。裏口から忍びこまうとして木戸にさはると、裏口ではなく玄関に面した木戸であつた。伝吉にとつては大いに昼間の掻攫ひと調子が違つた。
彼は次第に大胆になつた。暗闇を恐怖し、昼の明るさを恐れない、いつもの調子に戻つたことを、彼自身で気がつかなかつたのだ、掻攫でなく、大盗になつた自信で、一番明るい煌煌と電燈のついた邸に向つた垣根を身軽に乗りこえて、芝生に立つた。みると大きな応接間の細長い窓が『お前が忍びこむには丁度いゝ窓の高さだよ』と彼を手招いてゐるかのやうだ。窓下にすり寄り、両開きの窓を開き、垂れてゐるカーテンに両手で掴まり、のびあがり部屋の内部を覗いた。室内は彼を落胆させるに充分であつた。見掛けは立派な応接室の内部がガランとして貧乏人の住居を想像させた、盗るものといつては一つもない。彼はしばらく考へてゐた。彼の考へは間違つてゐた、実は室内は贅沢に整理された空虚さであつて、大きな金縁《きんぶち》に何やら青い色が詰めこまれた洋画や、書棚、安楽椅子など、何れも高価でないものはなかつた。
彼にとつてこの種の調度品は、量《かさ》と重みがありすぎた。彼は結局書棚の上の銀色の装飾的な花瓶を失敬することにきめ、窓から室内に辷り込まうと努力したが、窓は案外の高さで、徒らに彼はカーテンを手で引つぱるだけであつた。彼を不意に驚ろかしたのは、突然何やら重いものが首と胸とを抱きかゝへたことで、彼は驚ろいて尻餅をついた。よくみると彼があまり激しく引張つたので、金具の鐶が千切れてカーテンが、彼の首に落ちてきて、女がショールをかけたやうに首のまはりに引かゝつた。彼は張り切つてゐた力が抜け、何もかもが嫌になつた。カーテンをショールのやうに首にかけたままで、ふらふらと夢遊病者のやうに邸内を出た。彼がその邸をものの数歩も出たと思ふと路は商店街に通じてゐて彼を明るい灯のもとに押し出してゐた。
夜の明るい人通りの中に立つて、すべての恐怖は去り、つくづくと彼は自分の首にかけてゐるカーテンなるものを見た。絨毯のやうに重い、赤と黄と黒との混ぜ織りで、黄は金色に見え、赤は朱に見え、芝居の緞帳よりも、もつと美しい立派なカーテンであることが判つ
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