目の電柱毎に立止つては、立つたまゝ冷たい柱に額を押しつけ、そこで二分間づゝ居眠りをして、前にすゝむのであつた。
 ふと見ると広い道路の真中どころに、馬の二倍ほどある黒い動物がじつと彼のやつて来るのを待ち構へてゐた。彼は恐怖しながら接近した、黒いものの形は動物の黒い影絵《シルエット》で影から三米離れたところに怪物の本体がゐた。
『なんてちつぽけな奴だい―』
 彼は怪物を軽蔑した、手の平にのつかりさうな一匹の小犬がクンクンと泣きながら立つてゐた。電燈の光りの加減で倍加されて影が道路に映つてゐるのであつた。
『やい、小犬奴が、わが王者の御通行をはばむとは―さては我に害心ありと見えたり』
 足を踏張り芝居がかりで、彼は小犬の鼻先へ親指を突き出し『怪物消えてなくなれッ』ととりとめもないことを呪ひ出した。
 小犬はだんだんと拳ほどの大きさから鶏卵の大きさに縮まり、ピンポン玉ほどになり、つひに姿を消した。彼は胸をそらし、陽気になつて大きな声で歌をうたひだした。
 不意に道路脇の暗がりから、若い警官が現れてきて呼びとめた。
『ちよつと待ち給へ、君はいま何の歌をうたつてゐたかね―』
 彼はいま歌つてゐた許りの歌を忘れてゐた。若い警官は改まつてたづねた。
『君は現在の政府に不満をもつてゐないかね』
 不意のメンタルテストに狼狽した彼は、かうした場合その場で率直に答へることが却つて有利だと思つたので
『今から約二年前は、政府に不満を抱いてをりましたが、今は全く感謝そのものでありまして―』
『よろしい、ところで一寸本署まで来てくれ給へ』
 彼は思想課調べ室へ呼び出された。
『おゝ、××君、君は革命歌をうたつたさうだね』
 彼はなんて冤罪だ―と心に怒つた。絶対に歌つた覚えはないのだ。思索的な路で、どうして非思索的な革命歌なぞを歌ふといふことがあらう。
 何心なく係官の机の上の紙きれをみた、彼を連れて来た若い巡査の書いた報告書がのつてゐた。
『×月×日午前一時頃××道路に於て警戒中泥酔せる男が放歌高声にて「彼等は常に我等の行動を監視し」と不穏なる歌を歌ひつゝ通行せるを連行せり』云々
 と書かれてあつた。彼に記憶が蘇つてきた、さうだ、ステンカラージンの歌をうたつた筈であつた。

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ドンコサックの群に湧きにし誹《そし》り
『我等』は飢ゆとも『彼等』は楽し
それをも侮《あなど》る妃の笑顔
それを見てステンカラージン醒めしは『悲し』
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 義賊ステンカラージンは仲間の規約を無視してペルシャ王妃を救つた上二人は恋の悦楽に酔ふ、部下のドンコサックがこれを怒りステンカラージンは反省して、妃を海に投ずる筋の民謡を歌つたのであつた。
 闇の中で警戒してゐた若い巡査は、歌の中から、『我等』と『彼等』とを拾ひ、『悲し』といふ歌の言葉を『監視』と解釈し、三つ結びつけて名調子に『彼等は我等の行動を常に監視し』と即興的に纒めあげたものにちがひなかつた。
『ひとつ君、その歌を見本に歌つてみい―』
『はつ、よろしう御座います』
 彼は取調べ室で体を左右にゆすぶり、指でタクトをとり『ステンカラージンの歌』を陽気にうたつた。
『この歌はレコードにもあります、革命歌などと大それた、神かけて嘘は―』歌ひ終ると平謝りにあやまるのであつた。
『まあ、どつちでもいゝ、当分此処へ泊つてゆくんだね』と係官はいふのであつた。

  下駄は携帯すべからず

 失業者珍太は二条の白く光つて続いてゐる鉄道線路伝ひに三十里歩るいてきた。
『東京へ着いたらしいな』と彼は半信半疑な儘で呟いた。大踏切りにやつてきた、彼の前に広い街路が展かれた。
『御苦労さまでした―』彼は自分に向つて、他人に言はれるやうな言葉をつかつた。珍太にとつては自分も他人も区別が判らない程にいまは空腹と疲労で精神が混乱してゐた。線路脇や、線路の枕木の上を歩るいて、彼が此処までやつてくる途中で何回となく線路工夫に叱り飛ばされたことだらう。彼は馬鹿叮嚀に工夫に向つてお低頭《じぎ》をし、工夫の職業とその監督権に顔をたてゝやるために線路を離れて柔順に丘から降りた。工夫の姿が見えなくなると以前のやうに線路の上にのぼつて歩るいてきた。
 珍太は引ずるやうに長着物を着て、チビた下駄を履いてゐた。それに彼にふさはしくないやうな綿入れの下着を着てゐた。この女物の綿入れは途中で畑の中に立つてゐた案山子《かかし》を物色して、案山子のなかで一番富裕らしく着込んだ奴から、綿入れを強奪して、それを着込んだのである。
 手頃な木の枝を拾つてステッキ代りに、体を支へて歩るいた。極度の疲労で痩せた両足は痲痺状態になり前のめりに前進し、奇怪なことには、ステッキが足より先に疲れたやうに思へたので、珍太はステッキを手にもつ苦痛から、これを投
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