。
源は若い男の幽霊ではあるまいかと驚ろいた、若い土工夫は確に猫イラズを嚥みはした、然し彼は次いで渓流の過の中で、鱈腹水をのんだのであつた、そのために却つて腸のなかを洗滌したことになり、岸に流れついて助かつたのだといふ、源はふんと首を傾しげ成程と合点した。
『俺は何処の土工部屋にも、ものの一ヶ月とは働いて居ない、前金踏倒し、飛つチョの名人さ』
源はかういつて、これから周旋屋へ行き、別な土工部屋へ売られて行くのだといふことであつた、逃走五度さうして舞ひ戻つて来れば、周旋屋から逃走奨励の金時計を褒美に貰へるのさ、と彼は得意になつて八字髯をひねるのであつた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
監房ホテル
遙か彼方を眺むれば
彼は監房での人気者であつた。手を膝の上にのせて頭蓋骨を外して手で捧げてゐる恰好で茫として坐つてゐた。係官に名前を呼ばれて立ち上るときはふだんは茫としてゐるのに似ず機敏で本能的な早さがあつた。
彼は栃木県の或る町で空腹に襲はれた。彼は盗るものを物色した、彼の執拗な視線の先方に紙芝居屋の自転車が一台、原つぱのまん中に立てゝあるのをみつけた。紙芝居屋は子供を集めに何処かに行つたのだらう、彼は紙芝居の箱の抽き出しから、一円二十銭の金を鷲掴みにした。
金が入ると彼は身内に勇気が蘇り、曇り日の街を非常な速度で走り抜けた。街端れの屋台にとびこんで、一杯十銭の安ウイスキーを十杯煽つた残りの二十銭で丸パンを買つて、ひよろ/\とした足どりで其処を出た。
紙袋の中からパンを一つとりだして、アングリと噛みつき鼻声で笑ひ出した。彼の心は幸福なのである。
宅地を横切る時、意外な敵が現れた。酔つた視線の中の敵とは、彼の足の脹脛《ふくらはぎ》を目がけて土埃りをあげ、頸毛をふくらませて突進してくる一羽の牝鶏であつた。彼はいつぺんに悲しくなり、同時に非常に驚ろいた。全く大胆さを失つて、『あゝ牝鶏が一体どうしよう』と叫び飛び上り、後を見ずに逃げだした。心の中では、牝鶏に追れてゐるといふ自分が何か忍び難いものに感じられた。
ゆるやかに水が流れてゐる幅の広い河の岸に辿りつき、ボツボツと大粒の雨が水面に斑点となつておちるのを、一つ一つ眺め浅瀬を対岸に渡つた。
古損木《こそんぼく》になりかけの一本の見上げるやうな高い樫の大木の下までくると彼は猿のやうによぢのぼり始めた。樹の頂上に近い手頃な枝にまたがつて、さて牝鶏めはと下を見おろしたが、牝鶏の影も形も見えなかつた。
『牝鶏でも、巡査でもやつて来い』彼は叫んで強く胸を打ち、遠方に視線をとばすと、意外にも彼の希望通りのものがやつてきた。豆粒程にも小さい黒い点が、腰のあたりで、にぶく白く光ることで剣を吊してゐることがはつきり判る。然も一人や二人ではなく七人の警官が遠くから走つて来るのを発見した。彼は少しも驚かず懐中から紙袋を出してパンにムチャクチャに噛りついた。その時雨は土砂降りとなつて、樹の上の彼は頭から雨を浴び、腹の中まで雨を流しこみながら、腰を枝に押しつけ、片足を前の枝にかけ、右手を帽子の庇の格好に、遠くに向つてかざしながら大声で怒鳴つた、彼の声は渋い良い声であつた。
『牝鶏でも巡査でもやつて来い』かういつてから、頬を伝ふ雨が口に入るのを、こくり、こくりのみこみながら、
『雲か霞か、遙か彼方を眺むれば――絶景かな、絶景かな、春宵一刻千金だア、ちいセイ/\、この五右衛門の眼からみれば価万両、てもよき眺めぢやなアー』と石川五右衛門が、南禅寺の山門から春の日うかうかと屋根に上つて京都を眺めて叫んだ、『楼門五三の桐』の歌舞伎のセリフを一くさり叫んだ。大木の幹の周りを警官がとりまくまで、彼は陶然として豪雨の中で見得をきつてゐた。監房ホテルの中で係官の註文によつて、お人好しの彼は大真面目で再演するのであつた。監房では彼のことを『遙か彼方』或ひは『雲か霞か』といふ綽名で呼んでゐた。
思索的な路の歌
彼の家の方角に通ずる路は坦坦としたアスファルトの軍用道路で、彼はこの道が好きであつた。勝手なことを想像して歩るく楽しみから『思索的な路』と彼は名づけた。深夜の路ををりをりバスがヘッドライトの光りで路上を撫で廻し、運転手が空バスを悪戯半分操縦して通るほど人通りが稀であつた。
彼はその夜も文学の会に出て、したたか酔つて夜更の路を帰つてきた、『司会者は、頭がいゝぞ――。』と彼は呟いた、会費僅か六十銭で酒が出て、とにかく板のやうではあつたが肉の揚げたものが一皿ついた。会では二人に一本の割にビールが出たので、女客や、飲まない客の分までのめた。酒好き党は、結局禁酒党の会費の分にまで割込んだかたちで一本乃至一本半の酒がのめた。
『おゝなんていゝ風だ』と彼は路を千鳥に縫ひ歩るきながら、三本
前へ
次へ
全47ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング