ぢのぼり始めた。樹の頂上に近い手頃な枝にまたがつて、さて牝鶏めはと下を見おろしたが、牝鶏の影も形も見えなかつた。
『牝鶏でも、巡査でもやつて来い』彼は叫んで強く胸を打ち、遠方に視線をとばすと、意外にも彼の希望通りのものがやつてきた。豆粒程にも小さい黒い点が、腰のあたりで、にぶく白く光ることで剣を吊してゐることがはつきり判る。然も一人や二人ではなく七人の警官が遠くから走つて来るのを発見した。彼は少しも驚かず懐中から紙袋を出してパンにムチャクチャに噛りついた。その時雨は土砂降りとなつて、樹の上の彼は頭から雨を浴び、腹の中まで雨を流しこみながら、腰を枝に押しつけ、片足を前の枝にかけ、右手を帽子の庇の格好に、遠くに向つてかざしながら大声で怒鳴つた、彼の声は渋い良い声であつた。
『牝鶏でも巡査でもやつて来い』かういつてから、頬を伝ふ雨が口に入るのを、こくり、こくりのみこみながら、
『雲か霞か、遙か彼方を眺むれば――絶景かな、絶景かな、春宵一刻千金だア、ちいセイ/\、この五右衛門の眼からみれば価万両、てもよき眺めぢやなアー』と石川五右衛門が、南禅寺の山門から春の日うかうかと屋根に上つて京都を眺めて叫んだ、『楼門五三の桐』の歌舞伎のセリフを一くさり叫んだ。大木の幹の周りを警官がとりまくまで、彼は陶然として豪雨の中で見得をきつてゐた。監房ホテルの中で係官の註文によつて、お人好しの彼は大真面目で再演するのであつた。監房では彼のことを『遙か彼方』或ひは『雲か霞か』といふ綽名で呼んでゐた。

  思索的な路の歌

 彼の家の方角に通ずる路は坦坦としたアスファルトの軍用道路で、彼はこの道が好きであつた。勝手なことを想像して歩るく楽しみから『思索的な路』と彼は名づけた。深夜の路ををりをりバスがヘッドライトの光りで路上を撫で廻し、運転手が空バスを悪戯半分操縦して通るほど人通りが稀であつた。
 彼はその夜も文学の会に出て、したたか酔つて夜更の路を帰つてきた、『司会者は、頭がいゝぞ――。』と彼は呟いた、会費僅か六十銭で酒が出て、とにかく板のやうではあつたが肉の揚げたものが一皿ついた。会では二人に一本の割にビールが出たので、女客や、飲まない客の分までのめた。酒好き党は、結局禁酒党の会費の分にまで割込んだかたちで一本乃至一本半の酒がのめた。
『おゝなんていゝ風だ』と彼は路を千鳥に縫ひ歩るきながら、三本
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