の含んだ頃です、その時だけは、小母さんは晴ればれとした顔をして、花園の中を歩るき廻ります。
『わたしの皮膚の匂ひを、かいでごらんよ、唖娘、なんといゝ匂ひだらうね。なんの花の匂ひをするか言つてごらんよ。』かう言つて小母さんは、唖娘の鼻さきに、自分の痩せた顔をつきだしました。
 こんなときには、おばさんの一日のうちで、いちばん機嫌のよいときですから唖娘は、小母さんの機嫌に逆はぬやうに、だまつて薔薇の花を指さします。小母さんは、さも満足のやうに、にこにこいたします、しかし、ほんとうは小母さんの顔はまつくろで、ざらざらと小さな棘の生えてゐるやうに、皮膚が醜く荒れてをりましたし、それに念入りに、こて/\と薔薇の花粉《はなこ》で拵らへた白粉を、まだらに塗つてをりました。
 小母さんは、この花粉の白粉で、額の溝のやうに深い、たくさんの皺をかくしてをりましたので、ほんとうの小母さんのとしが何歳《いくつ》であるか、唖娘は知りませんでした。

    三
 しかし小母さんの機嫌のよいのも、ほんのちよいとの間でした。午後になつて、薔薇の花の露もとけてしまひ、お日さまがぎら/\と照る頃になると、だん/\と小母さんの気があらくなつてまゐります。
 そしてはげしく薔薇の鞭をならしました。
 唖娘はいち/\、ひとつ残らず薔薇の花に、接吻をして廻らなければなりませんでした、すると不思議なことには、蕾はぱつと開き、元気なくしをれていた花は、いき/\と頭をもたげました。
 唖娘は午後から、かうして幾千といふ数かぎりない花園の薔薇に、接吻をさせられましたが、しまひには唖娘の可愛らしい唇は、あれきつてザクロのやうになつてしまひました、そしてふつくらと、ふくらんでゐた頬も棘に引掻れて、憐れに傷ついて、治るひまもないほどでありました。
 夜になると、唖娘はまた小さなカンテラをともして、花園にゆかなければなりませんでした、そしてそのカンテラの灯でてらしながら、薔薇のひとつひとつの棘をていねいに磨かなければなりませんでした。
 唖娘が、蛙のやうにも、ひい/\と馬のやうにも泣くことができなくなりますと
『この娘は、なんといふちかごろ強情になつたのだらう、少し位打つても泣かない。』
 かう小母さんは言ひながら、以前にも増してはげしく鞭を振りました。
 唖娘はやがて、まつたく泣くことも笑ふことも忘れてしまつて、石のやうな顔となつてしまひました。
 或る日、唖娘がよねんなく、野原で花びらをつないでをりましたところがいつの間にか自分の傍《そば》に、緋の衣装《ころも》をきた少女が坐つてゐて、をなじやうに花びらをつなぎ始め、をりをりにつこりと、優しく唖娘に笑顔をむけましたが、とう/\いつの間にか二人は仲善しになつてしまひました。
 しかし唖娘は物を言ふことができなかつたので、どんなに悲しかつたでせう。

    四
 唖娘が、ある晴れた日、いつものやうに草原に坐つて花をつんでをりました。
 すると、どこからともなく、美しい一人の男の子がやつてきました、そしてふところから、それは/\美味しさうに熟した、唖娘には、かつて見たこともないやうな果物をひとつだして、くれました。
 しかし唖娘は、頭をふつて、けつしてたべようとはいたしませんでした。
 それは、小母さんが、唖娘に毎日の食物として牛乳より他にくれませんでしたし、そのほかのものをけつして食べてはいけないと、かたく禁じられてゐたからです。
 すると男の子は
『笑ふことも、泣くことも忘れてしまつたお嬢さま、その実を喰べると声がでる。』
 かう言つて、果物を置いたままに行つてしまひました。
 唖娘は、小母さんの言つたことも忘れてしまつて、他のお友達のやうに、声をだして笑つたり泣いたりしたいばつかりに、その果物を喰べました。
 すると遠くの男の子は、急に大きな鳥になつて、さん/゛\唖娘を、あざ笑つて飛んでしまひました。
 意地の悪い鳥に、欺されて唖娘は、果物をたべたので、声がでるどころかいままでしぼみかけた薔薇の花でも、唖娘が接吻をすると、ぱつと元気よくひらいたのが、それもできなくなつたのです。
『唖娘、お前は、けふ野原でけがれた果物を喰べたにちがひないよ、あんなに清い唇が、汚《けが》れてしまつてゐる。』
 かう言つて小母さんは、さん/゛\唖娘を鞭で打つたうへ、薔薇の花園を追ひ出してしまつたのです。
 唖娘はしかたなく、野と云はず山と云はずどこと言ふあてもなく歩るき廻りました。
 するとある日の夕方、大きな白い牡丹の花が、みわたす限り海のやうに咲いてゐる広い花園に着きました。
 唖娘はもう悲しくなつて、この牡丹の花のなかにじつと立つて、途方にくれてゐるとそのとき唖娘の傍《そば》に咲いてゐた一本の大きな牡丹の花が
『かあいさうなお嬢さん、土の中に両
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