《かれひ》は全部真白だよ、この頃の海の水は非常にきれいになつた、それで鰈の奴も白くなつたのだらう――』と言ふのでした、仲間の漁師は考へた。自分達が漁に出ても、海の水は相変らず濁つてゐるし、だいいち真白になつた鰈などは、釣れたためしがないので、その言葉を怪しみました。
『そんな筈がない、ひとつその君の白い鰈といふのを拝見させて貰はうぢやないか――』
 漁師達は打ち揃つて男の家へ行つてみました、男の家の土間には、なるほど真白い鰈が列べられてゐましたが、よく見ると鰈の腹側の白いところを、みんな上向にして列べてあることがわかりました、漁師達は、それをひつくり返して、表の黒いところを出して指さしながらいひました。
『君は妙な男だよ、こないだから大分、暴風波がつづいてゐたが、このたつた二三日、凪があつただけで、すぐ気の変つたことを言ふのは困りものだね、鰈の裏表もわからずに、よくもこれまで漁師をやつて来られたもんだ、大体君といふ男は物の裏表がわからんばかりぢやない、前に言つたことを、手の裏を返すやうに、平気で変へてしまふ、信用のできない、ズルイ男だよ――』
 かういつて笑ひながら一同は帰つてゆきました。(昭13・6三十四)

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緋牡丹《ひぼたん》姫

    一
 唖娘はたつた一人で野原にやつてまゐりました。
 そして柔らかい草の上に坐つて、花を摘んであそんでゐました。
 さま/゛\の、青や赤の草花の花弁《はなびら》をいちまいいちまい、針で通してつなぎました。この花弁で首輪を作つたり腕輪をつくつたりしてあそびました。
 唖娘は花をつみながら、どんなにお友達のないことを悲しんだでせう、唖娘はどんなに泣いたことでせう。唖娘はたいへんほかの娘《こ》よりも、たくさん涙をもつてゐました、そしてほかの娘よりもたくさん泣いたのでした。
 しかし唖娘はけつしてお友達の前で泣いたことがありませんでした。
『まあ、ほんとにお可笑《かし》いわね、蛙のやうよ』
 お友達は、唖娘の声をたてて、泣くのをかう言つて笑ひました。唖娘は、泣くことがほんとに下手でした、そして声を立てて泣いても、お友達の言ふやうに、ほんとうに蛙のやうに、いやらしい声をたてて泣くのです。
 お友達よりも、たくさんの涙をもつてゐましたので、その涙は眼にあふれさうです、しかし皆《みんな》の前で、泣いてはみなに笑はれますので、どんなに悲しい出来事があつても、じつと堪《こら》へてをりました。そして野原の誰もゐない、静かな草の上にきて、せいいつぱい、蛙のやうな、醜い声を張りあげて泣くのでした。
 唖娘は、草花の花弁を糸につなぎながら、とき/゛\胸に手ををいて、五日も十日も一月も、二月も、それよりももっと/\以前の悲しい出来事までも思ひだしてはたつた一人で泣きました。しかし悲しい事がまいにち沢山つづきましたので、お友達の誰よりもあふれるやうにもつてゐた唖娘の涙もかれてしまひました。そして、蛙よりもつと醜い、『ひいひい』と馬のやうな声をだして泣くやうになりました。
 それに唖娘の涙は、もう頬に流れることがなくなつて、瞼の内側に火のやうに熱くたまつた僅かばかりの涙が顔の中にながれました。
 そのとき、はじめて唖娘は涙は海の水のやうに塩からいものだといふことがわかりました。

    二
 しかしやがて馬のやうに泣くことも、唖娘にはできなくなつてしまひました。
 いつも唖娘の泣く声の面白さに、さま/゛\なことを言つて、唖娘を泣かした意地の悪いお友達も、唖娘が泣かなくなつてから、誰も対手《あひて》にしなくなりました。
 唖娘には、お父さんもお母さんもありませんでした。
 そしてこの憐れな孤児の唖娘は、見も知らぬ不思議な小母さんに養はれてゐました。
 それが何時《いつ》の頃から、小母さんの処に来てゐるのか、自分でも知つてゐないほど、小さな時のことでした。
 小母さんは、それは/\広々とした花園《くわゑん》を持つてゐて、そこには薔薇の花をたくさん植ゑてゐました。
 唖娘はまい朝早く起きて、この花園の土に素足になつて、手には重たい如露《ぢよろ》をさげて、薔薇の間を縫ひながら、花に水をやるのが仕事でした。
 その仕事は、けつして辛い仕事だとは思ひませんでしたが、小母さんは、たいへん邪険な人でしたから、唖娘がささいなあやまちをしても、薔薇の棘のある細い鞭を、ぴゆう/\と風のやうに鳴らして、肩のあたりを激しく打ちました。
 唖娘は、これをたいへん悲しく思ひました。小母さんは、黄色い長い上着をぞろ/\と、地面にひきずりながら恐ろしいとがつた眼をして、唖娘の後に尾《つ》ついてきながら、それはやかましく指図をしたり、小言をいつたり、いたしました。
 小母さんのいちばん機嫌のよいのは薔薇の花に、しつとりと朝露
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