しも物柔らかに慇懃に
百姓たちに熱心に仏を説く、
ほれぼれするやうな
声はかういつてゐる、
――お爺さん
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お婆さん
聞きちがへるぢやないぞよ、――
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はきちがへるぢやないぞよ、――
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救つて下されぢやないぞよ、――
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助けて下されぢやないぞよ、――
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弥陀の親様の方から
助けさしてくれいよ、
救はしてくれいよの、
お声がかりぢやぞよ。
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寺院は風にさわぐ稲の穂のやうにざわめきたち、
あちこちに消え入るやうな人々の声、
なんまんだぶ、なんまんだぶ、
なんまんだぶ、
一個の木像を前にして
僧侶は前進、後退法衣の鮮やかな裾さばき
読経は男声四重唱
鐘、太鼓、木魚、銅鑼のオーケストラ、
見あげるやうな寺院の高い天井まで
読経の声と、香の煙と、匂ひで満たす、
緊張をもつて儀式は始まり
緊張をもつて終るやうに
一隊が朗々と読経すれば
指揮者が急所急所のカンどころで
経本をもつて立ちのぼる香煙サッと
切つて大見得をきる、
肝心なところでは合の手に
銅鑼係りがドラをもつて
ヂャンボン、ヂャンボン、心得たものだ、
なんと充実した音響の世界、
僧侶は、信者がこゝで思索することを好まない、
一切は弥陀の他力本願であつて
仏を批判するものは地獄へをちるぞ――
高坐の上から説教師は
技術のすばらしさをもつて大衆を説得する、
突如、狼のやうに叫ぶかとおもへば
また猫のやうな猫撫で声になる、
摂津の八郎兵衛の宗教物語、
――お師匠さま
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弥陀の親さまの
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おんとしは
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幾つでござりませうか、
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おゝ、八郎兵衛
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弥陀の親さまの、おんとしか、
みだの親さまのおんとしは
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そちと同じだぞよ
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そちと同じだぞよ、
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物語ひとくさり語り終ると
あちこちでは感動の嘆息とスヽリ泣き、
老婆は痩せた膝の中へ、すつかり頭を突つこんで
鼻水をすすり、すすり、
――あゝ、有り難い
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御慈悲さまでござります
私のやうなイタヅラものゝために
五劫十劫の
御苦労あそばされるとは
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何とまあ
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広大な御慈悲さまで
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ござりませう
なんまんだぶ、なんまんだぶ、
なんまんだぶ、
[#ここで字下げ終わり]
寺院の正面には白い大きな蓮
人間がその中に入つて座る、
花弁はしづかに閉ぢられて
生きながら極楽往生、蓮華往生、
中でしづかに死んでゆく
いましも往生をのぞむ奇特な老人のために、
儀式は始つてゐる、
寺院は湧き立つ鍋のやうに震動してゐる、
そのとき老人は、空虚な足どりをもつて
二人の僧侶に肩をささへられながら
蓮に通ずる階段をのぼつてゆく
直視するに到底堪へないほどの
老人の顔は、素朴な百姓の顔、
彼は蓮の花弁の中に端座する
花弁が音もなくとぢられ
花弁がしづかに開かれるとき
彼の肉体から、生命が
タンポポの柔毛が風に舞ひたつやうに、
高く去つてしまふために、彼は坐つた、
花は閉ぢられた、
寺は儀式の終末を告げる最後の
努力をもつてあらゆる楽器は
激情的な騒音を連続的に立て
僧侶たちは花の中の物音を
打ち消さうとするかのやうに奏楽すれば
信者たちは、花の中から聞えてくるコトリといふ
物音をも聞き洩すまいとするかのやうに
周囲の雑音と彼等の耳はたたかつてゐる
花の中の老人はすでに冷静を失つてゐた、
花の中は暗黒、彼の坐つてゐる空間は極度にせまい、
けだものの皮に縫ひこめられた人間の
苦痛にひとしい花びらの中に
とらへられた人間の不安、
台の下から恐怖が襲つてきた
生に対する猛烈な執着
指でアバラ骨を掻き鳴らし
生死の間の歌うたふ
老人よ、彼は立ち上らうとして
百姓的な頑固な両腕の
狂暴な力をもつて
花びらを押しひらかうとする、
すべては徒労ですでに遅い
老人は肛門のあたりに
何かが触れたのを知つた、
火のやうに熱したものか、氷のやうに冷却したものか、
瞬間ヒヤリと台の下から忍びこんだもの、
火もまた熱度の頂天に達するときは
氷のやうな感触をもつ、
燃えた鉄の蛇は
直立した堅さをもつて
肛門に飛びこみ
老人の腹の中をかけまはる苦痛に
彼は花弁に体うちつけ
老人は二言何事かを――絶叫した、
その声は高い
だが百の銅鑼がその声をうち消した、
まじまじとパドマを見まもる群集たち
鳴物ハタと一斉にやみ
固く閉ぢられた白蓮は
群集の注視の真只中に
みるみる紅蓮にかはつてゆく、
その時花のつぼみは
ポンといふ
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