たときは
蛇のやうな体臭を発散する
――、とは大杉栄の述懐であつた
いまでは彼女も老いた
悠々たる長い蛇ではない
短い、そして怒りも短時間だ
鋭い歯はもつてゐるが毒をもつてゐない
噛みつかれさうな人よ、
安心したまへ
彼女が不意を喰つたときだけ
体全体を鎌首にする
自己防衛の習性が残つてゐるだけだ
平素はトカゲのやうに
鞄をもつてチョロチョロと
人々の間を走りまわる。


板垣直子について

家庭にあつては優しい母親で
なぜ文章の上では
あのやうな毒舌家なのだらう
行つた先先で
ふところから
化粧鏡とパフをだすかはりに
マナイタと出刃庖丁をだす鬼婆だ、
刃物さへあてさへすれば
骨が離れると思つてゐるのはどうかと思ふ、
彼女は案外料理の仕方を知らないのだ、
直子さんよ、
他人の作品を批評する場合もどうか
酔つて帰つて
あなたの愛する鷹穂のズボンを
ぬいでやるときのやうに
親切にしてやつて下さい。


或る女流作家に与ふ

貴女は
なまじつか人生の外塀を
手探りでまねる
小ざかしさを知つてゐるために
軽蔑すべきことをしてゐる
軽蔑すべきことは
あゝ、小説なるものを
つくる術を知つたことだ
それから怖ろしいことが起つた
子供と亭主を捨てゝしまつたことだ
結局あなたは
階級闘争は知つてゐても
男の心を知らなかつたのさ

後悔の月はのぼつてゐるが
雲の乗物が迎へにやつてこない
真夜中の目覚めに
貴女の鼻水は
多少はすすられたにちがひない
しかし涎と鼻水とで
つなげる愛は
新婚三ヶ月位の間だけだらう
貴女がオムツの数を
千枚もとりかへて育てた子供は
今年中学の試験を受けた筈だ

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
◆雑纂・補遺詩篇

散文詩 雪のなかの教会堂

 ながい時間の寒さの辛棒もほんの僅なしげきで眼をさましもう堪えられなくなつた冷たさです私はどんどんと馬橇の中で足ぶみをして足の裏に暖気のたんじようを待ちました、だがなかなか強情な冷気でつむじ曲がりの寒暖計のやうに水銀の玉は容易に動かうとはしないのでした。馬橇はあかるい舞台照明の青さの中をそれは静かにひつそりと走つてゐるのです、たくさんの電信柱の退却または都市建築物のすべてが幾何学派の絵画のやうに渦巻波の雪の道路はうねうねとうす緑の輪廓線に馳けてゆくのです。
 それからこの私の乗り物はだいぶ走つたやうです、黒い幌の窓から見える外光はだんだん日暮れになつてゆき、いまいましいほど穏かな街の景色です。ふと馬橇は速力を弱めお客さんの私にどんどんと二三度も尻餅を搗かせた手綱『乗せてくださらない』私はだまつて白眼で橇の天井裏を睨ませたほどのそれは優しい優しいたしかに女の声です
『よう御座んす……お乗んなさい』馭者台の馭者は私の歓迎の辞の代読者でなかなか話せる男です。
 私は不意にマントを頭からすつぽりかむつてうとうとしたゐねむりの真似をやりました。
 私の神経は急に鋭敏にこころだけはしかし高速度撮影器機の乾板のゆるやかさです、幌をめくつて乗つた女は白い毛糸の長い首巻をした白い女で、空つ風に頬ぺたの可愛らしく赤いことはマトン[#「マント」の誤植と思われる]のボタンの穴から覗きました。向ひあつて腰かけたおたがひは膝と膝とがすれあふほどの四畳半の情熱の室で女が隠した私の顔を知らうといふあほらしい努力です。
 ただこれ触だけの感[#「ただこれだけ感触」の誤植と思われる]にも私の心臓は臆病な医者が女の手の脈搏を感ずるやうなのに、さても大胆な若い女は黒い瞳を平にしてちらと私を見たばかりの平気さです。女よ、女は遠浅の海の水平線です広さだけはふしぎな際涯《さいはて》をもつてゐる偽りの去勢動物です、黄色いねば土の自画像に専念な憎らしい彫刻家です女のために馬橇は止まつてすたすたと女は小走りに駈出しました。そこの広場に建てられた雪の中の教会堂の扉の中に……


追悼詩 ひとりたび
[#ここから2字下げ]
田中社長のお子さん克行さん(四ツ)が亡くなりました、それは真丸い眼をした可愛らしいお子さんでした
[#ここで字下げ終わり]

お眼めを
つぶつた
克行さん
 ……
ちいちやい
あんよの
一人旅
 ……
お眼めを
つぶつた
克行さん
 ……
靄の
小路の
一人旅


聯詩の会
    広瀬氏歓迎席上

 私の家で二十七日夜来旭の広瀬操吉氏を中心に雑談をやつた、広瀬氏が聯詩をやらうといふ提議に車座になつて数枚の詩篇は、幾度となく一同をめぐり廻つて完成された。鈴木も今野もそして私も、この聯詩といふものは始めてだがこの奇怪な作業に、すつかり魅せられた。もつと当地方でもこの聯詩を流行《はや》らしてもいゝと思ふ。
 殊に私などは自我的で、自分の仕事に閉ぢこもつたきりである、かうして一つの主題の下に、ちがつた三人の個性が
前へ 次へ
全19ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング