ゐるから、
眼には人間に対する激しい愛情が
沼の上をよぎつてゆく風のやうに
水面をいつも掻きみだしてゐるやうに見える、
沼はそして死んではゐない、
生きてゐること、動いてゐることを
眼はわたしに知らしてくれる、
あなたの眼よ、
燃える愛の珠体よ、
顔の皮膚は物怖じをしてゐるのです、
でも眼はいつも深い沼か湖のやうに
思索的に光つてゐます、
たたかひを経てきた女の美しさを、
いつのまにかあなたは身につけてゐるのです、
わたしもあなたを取り巻く
雑多な愚劣な男の群の一人に加へて下さい、
女を愛する時間が豊富にあつて
それより以外に時間のいらない男のひとりに、
せつかちな忙がしい私を加へて下さい、
わたしはひとつの試練のまつたゞ中で
愛とたたかひとが両立することを
かたく信じて疑はない男です、
あなたは幾分そのことを疑がつてゐるやうです、
ハイネもそのことで悩みました、
『時代の大きな戦争《たたかひ》に
 他人《ひと》が戦はなければならぬとき』と
前置きをしてから
おづおづと愛の歌をうたひはじめ
そしてだんだんと夢中に歌つてゐる
愛のやさしい鎖にかこまれて
闘志をうしなふおそれはある
愛の幸福の陶酔は
避けようとして、避けることのできないものだ、
私も詩人ハイネのやうに良心がある、
しかし前置を書くほど悠長ではない、
光つてうるほひのある湖の眼、
沈鬱で悲しい時代の表情よ、
あなたの美しい眼は
ついこないだまで捕はれてゐた、
重い苦しい時間の反覆のなかで
単調にじつと眼は考へこんでゐた、
いかにあなたを強く愛するものも
近づくことのできない刑務所の中で
あなたの眼はじつと一個所の窓を
ながめてくらした、
可愛らしい一羽の雀が
あなたの見えるところの木の枝に
きまつて同じ木の枝に
とまつて鳴きながら
さまざまに羽で姿態《しな》をつくつて
退屈なとらはれの心を楽しませてくれた、
わたしはあの雀のやうに
重いあなたの眼を柔らげる程の力がない、
わたしの沈鬱な
他人に語ることができない苦しみの眼が
あなたの幅広いがつちりとした胸に抱かれる
あなたは雀の胸毛の風にそよぐやうな柔らかさと
たたかひの疲労を投げかけても
慰さめてくれるものを私は感ずるのです
わたしにとつて切実な、
あなたにとつて突然な、
不用意な私の愛の表現を
あなたはどうぞ軽蔑して下さい、
林の中はしづかでした、

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