真の自由ではないと思ふ
 僕は真の自由といふものは
 精神の規律化、精神の典型化を生活上に
 当てはめたものだと思ふ
 そのやうな思想を信じたい
――そんな馬鹿なことがあるものか
 規律、典型、秩序、道徳、そんなものは必要でない、
 一切のものゝ破壊だ
 それが自由さ。
――僕はあくまでその種の自由を
 自由とは認めない
 アナアキズムは観念の世界の自由だ
 手綱なしで乗る馬さ
 君等は人間の本能を
 制御する力もないんだから
 秩序ある自由の下に
 真の闘ひを展開させることなどはできない
――いや、よく解つたよ、
 大西三津三君はどうやら
 怪しげな思想体系をもち始めたよ、
 然し思想体系をもつものは
 集団行動をしなければ意味がないんだ、
 我々アナアキスト詩人は
 いゝ友情の下に組織的行動をとつてゐるんだ、
 ところで君は何主義でもないといふ
 なんの集団行動もやつてをらん
 つまり君のは個人的法螺だな。

   二十三

――僕は、真の自由主義者だよ
 君が是非共僕に主義を
 声明しろと言ふんなら言ふさ、
 僕は、アナアキズム反対主義さ
――何をッ、大西、もういつぺん言つてみろ
 君はアナアキスト詩人壺川茂吉が
 我々の陣営を裏切つて
 コンミニストの方へ走つた
 そして我々に足を折られたことを覚えてゐるだらう。
大西はアグラの膝を立てた
――それで君も僕の足を
 折らうといふのかね
 君達に他人の足を折る自由と
 権利があつたら、さうし給へ
 壺川の場合だつて彼は豪いさ、
 信ずる方向へ進むためには、
 足を折られても妥協のない行動をとつたのだ。
何時果てるとも判らぬ議論の間に
りん子の甘つたれた声が仲裁に入つた
――みなさん、遅いのよ、寝まない
彼女の声で二人の論敵たちは
夢から醒めたやうに
たがひに顔を見合せてにやりと笑つた
――みなさん、遅いのよ、寝まない
二人はもう一度口の中で
彼女の言葉を繰り返してみた。

   二十四

蝋燭が尽きさうになつた、
パチパチと爪を切るやうな音をたてた、
理由ははつきりとしてゐるのだが
一同はそれを口に言ひ表はすことができない
――誰が彼女にもつとも接近したところに寝るか
由来恋は地理的である、
地の利を占めることが最も必要だ
尾山は年輩者らしく
早くも其の場の人々の関心事を見てとつた、
一切を彼女の自由意志にまかすことだ
彼女がどこにどのやうな塹壕をつくつて
男達を防ぐか
それとも彼女が全く城門を開放してしまふか

   二十五

戦術家としての彼女の意志を知る必要がある
――りん子さん、あなたは何処へお寝みになる
彼女の答は活溌だ
――私に、六畳の部屋をくださいな
 わたし一人の部屋よ
 みなさんは四畳半に寝たらいゝわ
おゝ、なんといふ公平な処置だらう、
彼女は聡明である、
りん子は押入から夜具を引き出さうとした
押入れには掛布団が一枚入つてゐるばかり
――寒かつたら何でも
 引ずりだして掛けて下さい
 毛布が一枚あるよ
 我々はみんなゴロ寝だ、
一人の女王のために
四人の兵士は野営の状態だ
それもよからう、心から王者に仕へるといふ
馬鹿者の心理は幸福だから、

   二十六

りん子は六畳の真中に夜具を敷き
火鉢の火に手をかざしながら
何やら雑誌を読みだした、
男達とサクラ子は四畳半に鮨詰めになつて
穏やかならぬ興奮状態で低い声で話合ふ
――君は吉田りん子といふ女を
 どう思ふかね
 悪党でもないやうだね、
草刈真太は低い吃り声で
古谷典吉に向つて語りだす、
――おれは、あの女が好きなんだ、
――ところで大西君も
 あの女に満更でもないだらう、白状しろ

   二十七

草刈の質問で大西三津三は悲しさうな顔をした
――まあ、待つてくれよ、
 おれといふ男はね
 女を好きになるまでには
 とても時間がかかるんだ
 それは悲しいことだよ
 りん子だつて好きとも嫌ひとも
 まだ判断がつかないんだ
 漠然たる不安の間に
 時に怖ろしく勇気が出ることもあるが
 あゝいふ、颯爽とした女と
 つきあつた経験がないんだよ
――さうかね、尾山清之助先生の感想は
尾山は答へない
愛児のサクラ子を寝せつけながら
ただくす/\と笑つてゐる
サクラ子は次第に眠気を催ほして
可愛い黒い瞼毛のまぶたを
とぢたり、あけたりして間もなく寝入つてしまつた

   二十八

――ところで俺だ、
 俺はあの女好きだよ
 彼女はいつも濡[#底本の「漏」を訂正]れてゐるカハウソといつた情味と
 精悍さを兼ね備へてゐる
『動物詩集』の作者、草刈真太は
絶讃する言葉に苦しんでゐるやうな
真に迫つた表情をする
草刈の形容は当つてゐる
彼女の小さな体は
いつも充実した感情で
水を出入りするカハウソによく似てゐる、
そして小さな体が怖ろしく強いはげしい
抱擁力を隠してゐるかのやうだ、
アナアキスト古谷はしだいに
憂鬱な表情に変つていつた、
彼はいかにも行動者らしい沈黙の中に
何か確信的な太い呼吸を
そつとときどき洩らしてゐる。

   二十九

男達の部屋の蝋燭は消され
いくらか遅れてりん子の部屋の蝋燭も消えた
長い時間男達の眼は
闇の中で開らかれたまゝであつた
男達の瞼を『おやすみなさい――』と
柔かい指で睡魔が撫で廻してあるいたが
男達の眼は反抗的であつた。
しかし男達の瞼も夜に征服され
鎧戸が下りたやうに閉ざされた、
小犬のやうにクンクン鳴いたり
馬のやうに低く嘶いたり
猫のやうにゴロゴロ言つたり、
さまざまな動物的な音をたてながら
詩人たちは寝入つてゐる。

   三十

大西三津三は不意に体の何処かにショックをうけ
痙攣的に飛び起きた
時刻はわからないが真夜中にちがひない
こはれた笛のやうな寝息をきいた
ぐずぐずと呟くやうな
鼻の鳴る音がきこえた、
――誰だらう、蓄膿症奴が、
彼はひとりごとを言ひながら
廊下伝ひに便所に行つた
彼女の部屋では火鉢の上で鉄瓶が
チンチンと可憐な音をたてゝゐた
すると彼女の元気のよい声で
――誰、まだ起きていらつしたのは、
 寒いでせう、お入んなさい
大西三津三は『は』と軍隊式簡単明瞭に答へて
襖をあけて女の部屋に入つていつた
大西の主義はいつも
『女に対して従順であるから――』

   三十一

何といふ四畳半の馬鹿者共の高い寝息だらう
飛躍と奇蹟がいつぺんに訪れて
武装解除した敵地に入城する快感のために
大西の両の膝頭がかすかに
カスタネットのやうに鳴るのだ、
彼女がカハウソであらうが
鵞鳥であらうがかまはない
寂寥な独身者である自分の傍に
生きものが寝てくれるといふことは
なんといふ最大なる幸福だらう、
あゝ、すばらしい
明日からおれの運命は方向転換するだらう
懶惰と憂鬱との無味乾燥は去り
俺の美しい一生はひらけるだらう
大西は彼女の寝床に従順であつた

   三十二

ところでどうやら寝床の中の
状勢は怪しいのだ
彼が彼女の傍に入つてゆくと
彼女の肉体が衝撃をうけた尺取虫のやうに
硬直してしまつた
大西はラヂオ技師のやうに
しきりに彼女の肉体にノックしたが
あゝ、世界の何処からも応答がない
我が北極探険船は
氷の寂寥に閉されて進むことも退くことも
出来ない破目に陥つた
彼の兼々主張する女に対する『漠然たる不安』
そんなものはとつくにけし飛んでしまつた
これ以上明瞭な不安はない
――およしなさいよ。お帰へりなさい
彼女は美しい声で
邪剣な退去命令を大西に下した。

   三十三

――はッ、失礼致しました
兵卒が上官に面責されたやうに
大西三津三はガバと彼女の寝床から離れ
オイチ、ニ、オイチ、ニ、の軍隊式の足取りで
四畳半に引きあげた
不思議な時間といふものもあるものだ
最大の幸福と最大の不幸との
継ぎ目といふものは
こんなに見分けがつかないものか
たしかに彼女が
『お寒いでせう、お入んなさい――』
といつたのに、そして従順であつたのに、
勇士が馬に乗つて
見事に障碍物をとんだと思つたのに
馬は見事にとんだが
乗手は鞍から離れて
いやといふほど痛い障碍物の上に
乗つかつてしまふとは
真夜中の乗馬遊びでよいやうなものの
白昼の観客注視の只中であつたら
帽子で顔を隠して
競馬場を逃げ出さなければならなかつたのだ
曾つて愚かにきこえた四畳半のわが友の寝息よ
いまは平安な男達の
賢明な寝息にきこえるばかり。

   三十四

春の朝の明るい部屋の中へ
濶達な女王さまは起きてゐる
男達はのろのろと
陰気な動物のやうに四畳半から出てくる
みると彼女の傍には夜着などをきこんで
意外や草刈真太が
特別製の威厳と幸福とを顔中にみなぎらして
彼女に寄添ふやうに坐つてゐる
常態でない
一夜にして草刈真太は亭主然としてゐる
太陽の光りの屈折が位置を変へたのだ
なぜといつて草刈奴の顔へばかり、
なごやかな平和な淡虹色の
光りが集注してゐたから
草刈は輝やいた顔で彼女と喋々喃々する。

   三十五

りん子は一同を見渡して
女には珍らしく威厳のある声で
――わたし達の共同生活は、といふ
――よろしく組織的でなければ、ならないわね、とつゞける
――古谷さん、貴方は掃除係り、
――尾山さんは炊事当番、
――大西さん、貴方は育児係りをして下さいな、
アナアキスト古谷典吉は情けない顔をして
――おれは、つまり便所掃除もするわけだな
――勿論、それから庭もね、玄関の前のドブ板のこはれたのも修理して下さい、
――よろしい
――大西さんは育児係りだから
 サクラ子ちやんを連れて
 一日中遊びあるいて頂戴、
大西は彼女の命令を快諾した
――しかしりん子さん。子供のお守りには
 オヤツがいるから経費がかゝりますよ。
りん子は財布の中から出した
五十銭玉を一つポンと投げだした
――今日一日中の育児料を差し上げますわ
――ありがたい。大西三津三はニヤリと笑つた
炊事係尾山は市場に買出しにでかける。

   三十六

ところで掃除係りの古谷から苦情がでた
――りん子さん。仕事の割り当ての済まない男が一人残つてをりますよ
 草刈真太君は何役ですか?
りん子はコケッティッシュにうそぶいて
――草刈さんは、わたしの亭主。
古谷典吉はをどろいた
――りん子さん、それは酷い
 我々を雑役に追ひやつて
 草刈の奴だけ丹前を着て収まるなんて、
 草刈があなたの亭主、なるほど、
彼はゴクリと唾をのみこんだ
――亭主なんて穏やかでない
 しかも我々の共同生活には
 亭主などゝいふ封建的な動物はゐなかつた筈だ、
 りん子さん、我々は不平です
 もつと穏やかな言ひ方をして下さい
りん子はそこで斯う言ひ方を訂正した、
――私たちの共同生活会社では
 わたしが女社長だから
 草刈さんを、わたしの秘書といふことにしてをきませうね、
――ところで貴女の草刈秘書は
 あなたに対してどんな仕事をするのですか
――いえ、それは当会杜の機密に
 属してをりますから公開できませんの。

   三十七

詩人達の朝飯が始まつた、
炊事係りの尾山清之助は
ハンペンの味噌汁をつくつた
喰ふとき草刈秘書から抗議がでた
――いつたい、ハンペンなどが人間の喰ひ物かい、
 いつたいハンペンが人類の食ひ物として
 歴史に現はれ始めたのはいつのことかは知らない、
 しかしかゝる変てこなものを
 平気で喰ふ人間の神経のにぶさが問題だよ、
尾山炊事係りは憤然として
――それは[#底本の「それに」を訂正]大いに違ふ、ハンペンを攻撃する
 君の神経の方がどうかしてゐる
 食物とは、決して歯や舌に負担を
 かけるやうな固いものを選むべきではない
 つまりハンペンは舌より柔らかい食物だ、
 文明人ほど柔らかいものを喰ふ
 みたまへ、西洋人の喰べ物を
 ジャム、マヨネーヅソース、ミルク、
 バタ、チーズ、シュークリーム、
――なんだい、その最後のシュークリームといふのは
――いや、僕が大好きだからさ、
 さういふ具合に文明人ほど
 食物に流動体を選むやうになる
 ハンペンとは現
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