段階に於ける
固形食物としては最も柔らかい方の存在だよ、
尾山炊事係りと草刈秘書とは論争する
――草刈君、それでは僕は炊事係りをやめる
明日から君が炊事係りになり給へ
僕はりん子さんの秘書になるから
尾山がかういふと『それには及ばぬ』と
草刈秘書は議論を打切つてしまつた。
夜が来た、
大西三津三がサクラ子のお守りで
綿のやうに疲れて帰つてくる、
夜になつたのだ、秘密を手なづけ
運命をおもちやにし、
薄弱な意志を深刻さうに持ち廻るには
都合のよい夜がやつてきた
りん子社長は六畳の間で芳香を放ち
四畳半の男たちは匂ひのする方向に
鼻づらをならべて寝た。
三十八
第二夜は明けて朝となり、運命は逆転してゐた、
きのふの秘書草刈真太はしよんぼりとして
新らたに古谷典吉が丹前を着込んで
りん子の傍に亭主然と坐つてゐる
草刈秘書は失脚して掃除係りにまはされた
草刈は便所のキンカクシに
タハシをかけて洗ひながら呟いた、
――女は深い淵のやうで
その心、はかり知れないなどゝは嘘の骨頂
女の心なんて皿よりも浅い
男は女を操縦しようとして
あまりにも長い竿をもちすぎて失敗する
浅い川には、小さな船、短かい竿がいちばんいゝ、
きのふの秘書は、今日の雑役夫、
愛は一日にして、古谷奴に横取りされたが
あすはまた取り返してやる
よろしい、愛が刹那によつて最高だとすれば、
まずもつて俺の愛は完全であつた、
これからは女といふものを
あまり深刻には考へまい
千切れ雲を追ふやうな寂寥の心で
たゞ熱心に追つかけたらいゝ
三十九
古谷秘書はりん子の傍でやにさがり
尾山清之助は台所でぶつくさ言ひながら
大根オロシで大根を擦つてゐる
大西三津三は縁側で
サクラ子を相手にオハジキをやつてゐる
食事がすむと育児係大西は
サクラ子を連れてぷいと家を飛び出す
郊外の土手伝ひに
二人は足にまかせて歩るきだす
とつぜん立ちどまつて蟻の戦争を見物する
――サクラ子ちやん、どつちの蟻が勝つと思ふ
――あたい、わからないわ
――そりや、おぢさんだつてわからないさ
しかし結局。強い方が勝つにきまつてる、
それが真理だ、
――ぢや、おぢちやん
どつちの蟻も弱かつたらどうなるの、
――うむ、さういふことも確かにあるな
そこで大西は考へこんだが
適当な答へを引きだすことができなかつた。
四十
そのとき路を横切らうとする一匹のガマをみつけた、
――おぢちやん、大きな蛙ね、
――蟇といふんだよ、
僕はこ奴のためにかう歌つてやらう
『ガマよ、お前は動物ではない
うごきまはる古い靴だ
死の怖れを知らない、強い奴』とね
全くだ古靴は死なうとか生きようとか
面倒臭いことは考へないからな
――おぢちやん、何をしやべつてゐるのよ
おぢちやんとガマとどつちが強い
――勿論、人間の方が強い
――ぢや、戦争をしてごらんよ
――よし戦つてやる、サクラ子ちやん見てゐてごらん、
――あたい、おぢちやんの味方になるわね
――いや一人でたくさんだ
大西三津三はたちまち洋服の上着を脱いで
蟇の前方にまはつて
強い視線をもつて
凝然と蟇を睨めつけた。
四十一
まず第一に奇襲を試みる必要がある
大西は蟇の頭の上へ、しやあしやあと小便を始めた
蟇は落下するものを、脂つこい皮膚ではじきとばし
ときどき手をもつて
うるささうに顔を拭つた
そのとき大西は小さな太鼓を
打つてゐるやうな快感を肉体に感じた
蟇は半眼をひらきじつと
大西の股間にぶら下つてゐる異様なものを
睨めつけてゐた
大西がふと気がつくとサクラ子もまた
不思議さうに大西の股間のものを珍しさうに
首をかしげて眺めてゐたのに気がついて
育児係りの任務を思ひだし
あわてゝ水責めの奇襲を打切つて
こんどはどこからか大石を運んできた
投げをろさうとして蟇の頭上にもつていつた
蟇は全く死を怖れざる古靴であつた
悠々として歩るきまはる
『生命の中には死はなし
死とは生命の外より来るものなり』
と哲人めいた達観ヅラで
ちよいちよい横眼で石をみあげながら進む
大西は石をもちあげたが
心の疲れでそれを蟇の上に落す力を失つた
――サクラ子ちやん、おぢさんは蟇に負けたよ。
四十二
蟇が死を怖れない永遠の強者なら
詩人はよろしくそのやうに強くならねばならない
こ奴の厚い無神経な皮膚はどうだ
鉄仮面をかぶつたやうに
陥没した奥のところに光つた眼がある
西洋の歴史物語にでてくる
暴れる囚人に着せる皮の外套、狭搾衣、
蟇も詩人も生れながらにして
運命の狭搾衣を着せられたやうなものだ
そのとき蟇はかう言つてゐるやうだ
――肉体のあるかぎり、行為はあるさ、と
ところで詩人は運命に対しても行為に対しても
あゝ、蟇よりも、蛙よりも、オタマジャクシよりも劣弱だ
大西三津三は別れる蟇に敬意を表し
サクラ子の手をひいて歩るきだした。
四十三
周囲は暮れかゝつてきた
思ひがけないさびしい郊外の原つぱに来てゐた、
遠くには瓦斯タンクが黒くそそりたち
家々も離れ点在してゐた
蟇と戦つて思はぬ時間を費したのだ、
街の灯がはるかに空に映つてゐる
――サクラ子ちやん、遅くなつてしまつたよ
いそいで帰らう
大西がサクラ子を引きたてた
サクラ子はお河童の髪を横にふつて
――あたい、お家に帰らないの、と言ひだした、
大西はおどろいてあわてゝ手をひつぱると
サクラ子は草の上にぺたりと坐つてしまつた
――どうしてお家に帰らないのサクラ子ちやん
――あたいお家が嫌になつたのよ
ママちやん死んじまつたし
パパはもうあたいを可愛がつてくれないし
よそのおばちやんが
あたいの毛布をとつてしまつたの
だからおぢちやんとこゝに寝るの
――仕方がない、彼女が野宿をしようとするなら、止むを得まい。
四十四
大西は枯草を集めてきて敷いた
その上にサクラ子を寝せ
大西の片腕を枕にさせて
一枚のレインコートを二人でかけた
それでどうやら夜冷えは避けられさうだが
心と眼とは益々冴えるばかり
――ねえ、おぢちやん何かお話をして頂戴
――おぢさんはお話をさつぱり知らないんだよ
――どんなでもいゝから話してよ
――何か無いかな、短かくてもいゝかい
――どんなんでもいゝの
――それぢや話さう、昔々あるところに
お爺さんとお婆さんとがをりました
お爺さんが歳をとつて死にました
それからお婆さんが歳をとつて死にました
――まあ、おもしろいわね――。
四十五
仰向いて寝ながらみる夜空の美くしさを
サクラ子は早くも発見した
大西は子供の美に対する感受性の早さに
大人の詩人は到底敵はないと心に思つた
地上に寝ながら満天の星をみてゐると
物理的な錯覚にとらへられる
地球もまた空間に浮んでゐるものとすれば
自分は地球の外側に浮彫りにされて動きがとれず
寝て眺めてゐるのに、空は星をちりばめた
一枚の直立した壁で
それに真向ひに立つてゐるやうな気がする
――おぢちやん、あのお星さまは奇麗だわね
指さすサクラ子の指の先には
たがひに手をひきあつて労はりあつてゐるやうに
七つの星がふらふらとゆれてゐた
――あれを北斗七星といふんだよ
ほら、あそこに光つた親星があるだらう
そのそばに小さな星が光つてゐるだらう
小さな方を支那では『輔星』といふんだよ
ひとつ星占ひをやつてやらうかな
親星の方を支那では
支那の天子さまと呼んでゐて
傍の輔星は『宰相』つまり内閣総理大臣
といふわけだ
ところでどつちが光つてゐるか
昔の支那人はそれをためして占つた
かう言つたんだよ
「輔星明かにして斗明かならざれば
則ち臣強く君弱し」
「斗明かにして輔明かならざれば
則ち君強く臣弱し」
「輔星若し明かに大にして
斗と会ふ時に、則ち国兵暴かに起る」
星を仰ぎながら天下の社会状勢を
占つた支那人はロマンチックな人種だな
四十六
――ひとつサクラ子ちやんの純真無垢の眼をもつて
どつちのお星さんが光つてゐるか当てゝごらん
しかしよさう、
かういふ幼児に真実を言はせるといふ
大人の押しつけは憎まれるべきだ
我々大人が真実を言はなければならん
――おぢちやん、何をひとりでしやべつてゐるのよ、
サクラ子眠くなつたの、おぢちやん何か歌つてよ、
ママちやんはいつもおやすみのとき
サクラ子に歌をうたつてくれたの
かうやつてね、布団をたたいてくれたの
――サクラ子ちやん、
それではおぢ[#底本の「じ」を訂正]ちやんが、朝鮮のお友達から
教はつたアリランの歌といふのを歌つてあげよう
そこで大西三津三は
星を仰ぎながら小声で歌ひだした
「アリラン
アリラン
アラリヨ
アリラン峠を越えてゆく
かくも蒼空に、星はあれど
われらが胸は
斯くもむなし」
歌ひ終ると大西は寝ながらチヱ[#「ヱ」は小文字]ッと
空にむかつて唾をとばし
「斯くも蒼空に星はあれど
我等が胸は斯くもむなし」かと
口の中で繰り返した、
サクラ子の肩を手で軽くたたきながら
もう眠つたらうと顔をのぞきこむと
サクラ子は冴えた眼をしてゐて
つづけて歌へとせがむ
四十七
――ぢや、もう一つだけアリランの歌のつゞきを
歌つてあげるから今度は温和しく眠るんだよ
大西は眺めるともなく空を視線で撫でまはしてゐると
視線は空の一角で一つの星が地上にむかつて
青白い光りの線と化して
流れ墜ちるのとぶつかつた
眼に強い刺戟をうけた
すると倦怠と脅えと疲労とが
彼を眠りの中に一気に引きこんだ
大西は睡魔と闘ひ、非常に努力しながら
とぎれとぎれにアリランの歌をうたひだした、
「アリラン
アリラン
アラリヨ
アリラン峠をこえてゆく
富と貧しさは
まはりかはるものなれば
汝等、なげくなかれ
いつかは君等にも来るものを」
歌ひ終つたとき全く眠りが彼をとらへてしまひ
どこか遠くの方でサクラ子の声をきいた、
サクラ子はじつと大西の歌をきいてゐたが
「おぢちやん、こんどはあたいが歌ふ番だわ
おぢちやん、おぢちやん、
―坊やはよい子だ、ねんねしな
坊やの、お守はどこへ行つた
おぢちやん、おぢちやん、おや、ねんねしてしまつたの
―あの山こえて、里行つた、
里のみやげに、何もらうた」
サクラ子は小さな手で大西の胸を
歌ひながら夢うつつで軽くたたきながら
サクラ子が育児係大西を寝せつけた
やがて大西は雷のやうな、いびきをかき始め
つづいてサクラ子も小鼻をピクピク動かしてゐたが、
まもなく二人とも深く寝入つてしまつた、
すると周囲の草が、吹き過ぎる風の
衝撃をうけて生きもののやうに動き始めた、
人々がこんこんと寝入るときに
自然が怒る時を得たかのやうに、
四十八
翌る朝、原つぱの上に陽が
高くあがつてしまつても
二人は死んだやうに寝入つてゐた、
まもなくサクラ子が眼をさまし
寝入つてゐる大西の枕元に
行儀よく、きちんと坐つたまゝで
大西が起きるのを何時までも待つてゐた、
大西があわてゝとびをきて
面目なささうにあたりを見まはし、
それから二人は沈黙がちに歩るきだした、
とつぜん理由のわからぬ怒りがこみあげてきた、
「おれたちは野宿をしたのだ、
誰がそんなことをさしたのだ
母親をなくしてしまつた可哀さうなサクラ子、
ぐうたら詩人尾山を父親にもつた可哀さうなサクラ子
最初の人生を野原に寝て味はつた可愛[#[愛」に「ママ」の注記]さうなサクラ子
この子をこれから誰が育てるのか、
託児所をつくれ」
大西はカッと眼をみひらいて空を睨んだ
そのとき朝の太陽は
「そいつは俺の知つたことぢゃない、
お門違ひだ、託児所のことは政府に頼め」
と太陽はゲラゲラ笑つたやうに思はれた、
「おぢちやん、何をそんな怖い顔をしてゐるのよ、
サクラ子、お家に帰りたくなつたの」
「お家へ帰らう、そして厳
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