くの間はなだらかに
愛の接触のをだやかなさゞなみをたててゐた、
家庭はたのしく平穏で
はげしいものといへば
台所で火の上のフライパンの
ジャアといふもの音くらい、
『まあ、大変な音をたてるね、
 油がはねて危ないぢやないか、
 お前の美しい顔を
 火傷をしたらどうしよう、
 まあお前は女学校で
 家事の時間に教らなかつたかい
 フライパンに火が入つたときや
 油がはねるときには
 どうしていゝかを』
男は笑ひながら
手際よく傍のネギを鍋に投ずる
すると油のはねる高い
もの音は温和しくなつてしまふ、
『肉の切り方はあぶないよ
 お前の可愛い指を
 きつたらどうしよう、
 肉のきり方はかういふ風に』
男は牛肉のせんいの説明をして
庖刀をあやつつて
肉の正しい切り方を示してやる、
女はなんといふ該博な智識をもつた
若い夫だらう、
その親切さよ
長い運命の道づれのたのもしさ
未来の生活の豊富な男の愛情
を想像してこゝろを[#底本「お」を訂正]どらす
『いゝえ、私は学校では家事と
 おさい縫は大嫌ひであつたの
 でもそれはいけないことであつたわ、』
さういつて台所の調理の
技術のまずさをほこらし
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