なかつた。

   四十

そのとき路を横切らうとする一匹のガマをみつけた、
――おぢちやん、大きな蛙ね、
――蟇といふんだよ、
 僕はこ奴のためにかう歌つてやらう
 『ガマよ、お前は動物ではない
  うごきまはる古い靴だ
  死の怖れを知らない、強い奴』とね
 全くだ古靴は死なうとか生きようとか
 面倒臭いことは考へないからな
――おぢちやん、何をしやべつてゐるのよ
 おぢちやんとガマとどつちが強い
――勿論、人間の方が強い
――ぢや、戦争をしてごらんよ
――よし戦つてやる、サクラ子ちやん見てゐてごらん、
――あたい、おぢちやんの味方になるわね
――いや一人でたくさんだ
大西三津三はたちまち洋服の上着を脱いで
蟇の前方にまはつて
強い視線をもつて
凝然と蟇を睨めつけた。

   四十一

まず第一に奇襲を試みる必要がある
大西は蟇の頭の上へ、しやあしやあと小便を始めた
蟇は落下するものを、脂つこい皮膚ではじきとばし
ときどき手をもつて
うるささうに顔を拭つた
そのとき大西は小さな太鼓を
打つてゐるやうな快感を肉体に感じた
蟇は半眼をひらきじつと
大西の股間にぶら下つてゐる異様なものを
睨めつけてゐた
大西がふと気がつくとサクラ子もまた
不思議さうに大西の股間のものを珍しさうに
首をかしげて眺めてゐたのに気がついて
育児係りの任務を思ひだし
あわてゝ水責めの奇襲を打切つて
こんどはどこからか大石を運んできた
投げをろさうとして蟇の頭上にもつていつた
蟇は全く死を怖れざる古靴であつた
悠々として歩るきまはる
『生命の中には死はなし
 死とは生命の外より来るものなり』
と哲人めいた達観ヅラで
ちよいちよい横眼で石をみあげながら進む
大西は石をもちあげたが
心の疲れでそれを蟇の上に落す力を失つた
――サクラ子ちやん、おぢさんは蟇に負けたよ。

   四十二

蟇が死を怖れない永遠の強者なら
詩人はよろしくそのやうに強くならねばならない
こ奴の厚い無神経な皮膚はどうだ
鉄仮面をかぶつたやうに
陥没した奥のところに光つた眼がある
西洋の歴史物語にでてくる
暴れる囚人に着せる皮の外套、狭搾衣、
蟇も詩人も生れながらにして
運命の狭搾衣を着せられたやうなものだ
そのとき蟇はかう言つてゐるやうだ
――肉体のあるかぎり、行為はあるさ、と
ところで詩人は運命に対しても行為に対しても
あゝ、蟇よりも、蛙よりも、オタマジャクシよりも劣弱だ
大西三津三は別れる蟇に敬意を表し
サクラ子の手をひいて歩るきだした。

   四十三

周囲は暮れかゝつてきた
思ひがけないさびしい郊外の原つぱに来てゐた、
遠くには瓦斯タンクが黒くそそりたち
家々も離れ点在してゐた
蟇と戦つて思はぬ時間を費したのだ、
街の灯がはるかに空に映つてゐる
――サクラ子ちやん、遅くなつてしまつたよ
 いそいで帰らう
大西がサクラ子を引きたてた
サクラ子はお河童の髪を横にふつて
――あたい、お家に帰らないの、と言ひだした、
大西はおどろいてあわてゝ手をひつぱると
サクラ子は草の上にぺたりと坐つてしまつた
――どうしてお家に帰らないのサクラ子ちやん
――あたいお家が嫌になつたのよ
 ママちやん死んじまつたし
 パパはもうあたいを可愛がつてくれないし
 よそのおばちやんが
 あたいの毛布をとつてしまつたの
 だからおぢちやんとこゝに寝るの
 ――仕方がない、彼女が野宿をしようとするなら、止むを得まい。

   四十四

大西は枯草を集めてきて敷いた
その上にサクラ子を寝せ
大西の片腕を枕にさせて
一枚のレインコートを二人でかけた
それでどうやら夜冷えは避けられさうだが
心と眼とは益々冴えるばかり
――ねえ、おぢちやん何かお話をして頂戴
――おぢさんはお話をさつぱり知らないんだよ
――どんなでもいゝから話してよ
――何か無いかな、短かくてもいゝかい
――どんなんでもいゝの
――それぢや話さう、昔々あるところに
 お爺さんとお婆さんとがをりました
 お爺さんが歳をとつて死にました
 それからお婆さんが歳をとつて死にました
――まあ、おもしろいわね――。

   四十五

仰向いて寝ながらみる夜空の美くしさを
サクラ子は早くも発見した
大西は子供の美に対する感受性の早さに
大人の詩人は到底敵はないと心に思つた
地上に寝ながら満天の星をみてゐると
物理的な錯覚にとらへられる
地球もまた空間に浮んでゐるものとすれば
自分は地球の外側に浮彫りにされて動きがとれず
寝て眺めてゐるのに、空は星をちりばめた
一枚の直立した壁で
それに真向ひに立つてゐるやうな気がする
――おぢちやん、あのお星さまは奇麗だわね
指さすサクラ子の指の先には
たがひに手をひきあつて労はりあつてゐるやうに
七つの星がふらふらとゆれてゐた
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