―しかしりん子さん。子供のお守りには
 オヤツがいるから経費がかゝりますよ。
りん子は財布の中から出した
五十銭玉を一つポンと投げだした
――今日一日中の育児料を差し上げますわ
――ありがたい。大西三津三はニヤリと笑つた
炊事係尾山は市場に買出しにでかける。

   三十六

ところで掃除係りの古谷から苦情がでた
――りん子さん。仕事の割り当ての済まない男が一人残つてをりますよ
 草刈真太君は何役ですか?
りん子はコケッティッシュにうそぶいて
――草刈さんは、わたしの亭主。
古谷典吉はをどろいた
――りん子さん、それは酷い
 我々を雑役に追ひやつて
 草刈の奴だけ丹前を着て収まるなんて、
 草刈があなたの亭主、なるほど、
彼はゴクリと唾をのみこんだ
――亭主なんて穏やかでない
 しかも我々の共同生活には
 亭主などゝいふ封建的な動物はゐなかつた筈だ、
 りん子さん、我々は不平です
 もつと穏やかな言ひ方をして下さい
りん子はそこで斯う言ひ方を訂正した、
――私たちの共同生活会社では
 わたしが女社長だから
 草刈さんを、わたしの秘書といふことにしてをきませうね、
――ところで貴女の草刈秘書は
 あなたに対してどんな仕事をするのですか
――いえ、それは当会杜の機密に
 属してをりますから公開できませんの。

   三十七

詩人達の朝飯が始まつた、
炊事係りの尾山清之助は
ハンペンの味噌汁をつくつた
喰ふとき草刈秘書から抗議がでた
――いつたい、ハンペンなどが人間の喰ひ物かい、
 いつたいハンペンが人類の食ひ物として
 歴史に現はれ始めたのはいつのことかは知らない、
 しかしかゝる変てこなものを
 平気で喰ふ人間の神経のにぶさが問題だよ、
尾山炊事係りは憤然として
――それは[#底本の「それに」を訂正]大いに違ふ、ハンペンを攻撃する
 君の神経の方がどうかしてゐる
 食物とは、決して歯や舌に負担を
 かけるやうな固いものを選むべきではない
 つまりハンペンは舌より柔らかい食物だ、
 文明人ほど柔らかいものを喰ふ
 みたまへ、西洋人の喰べ物を
 ジャム、マヨネーヅソース、ミルク、
 バタ、チーズ、シュークリーム、
――なんだい、その最後のシュークリームといふのは
――いや、僕が大好きだからさ、
 さういふ具合に文明人ほど
 食物に流動体を選むやうになる
 ハンペンとは現段階に於ける
 固形食物としては最も柔らかい方の存在だよ、
尾山炊事係りと草刈秘書とは論争する
――草刈君、それでは僕は炊事係りをやめる
 明日から君が炊事係りになり給へ
 僕はりん子さんの秘書になるから
尾山がかういふと『それには及ばぬ』と
草刈秘書は議論を打切つてしまつた。
夜が来た、
大西三津三がサクラ子のお守りで
綿のやうに疲れて帰つてくる、
夜になつたのだ、秘密を手なづけ
運命をおもちやにし、
薄弱な意志を深刻さうに持ち廻るには
都合のよい夜がやつてきた
りん子社長は六畳の間で芳香を放ち
四畳半の男たちは匂ひのする方向に
鼻づらをならべて寝た。

   三十八

第二夜は明けて朝となり、運命は逆転してゐた、
きのふの秘書草刈真太はしよんぼりとして
新らたに古谷典吉が丹前を着込んで
りん子の傍に亭主然と坐つてゐる
草刈秘書は失脚して掃除係りにまはされた
草刈は便所のキンカクシに
タハシをかけて洗ひながら呟いた、
――女は深い淵のやうで
 その心、はかり知れないなどゝは嘘の骨頂
 女の心なんて皿よりも浅い
 男は女を操縦しようとして
 あまりにも長い竿をもちすぎて失敗する
 浅い川には、小さな船、短かい竿がいちばんいゝ、
 きのふの秘書は、今日の雑役夫、
 愛は一日にして、古谷奴に横取りされたが
 あすはまた取り返してやる
 よろしい、愛が刹那によつて最高だとすれば、
 まずもつて俺の愛は完全であつた、
 これからは女といふものを
 あまり深刻には考へまい
 千切れ雲を追ふやうな寂寥の心で
 たゞ熱心に追つかけたらいゝ

   三十九

古谷秘書はりん子の傍でやにさがり
尾山清之助は台所でぶつくさ言ひながら
大根オロシで大根を擦つてゐる
大西三津三は縁側で
サクラ子を相手にオハジキをやつてゐる
食事がすむと育児係大西は
サクラ子を連れてぷいと家を飛び出す
郊外の土手伝ひに
二人は足にまかせて歩るきだす
とつぜん立ちどまつて蟻の戦争を見物する
――サクラ子ちやん、どつちの蟻が勝つと思ふ
――あたい、わからないわ
――そりや、おぢさんだつてわからないさ
 しかし結局。強い方が勝つにきまつてる、
 それが真理だ、
――ぢや、おぢちやん
 どつちの蟻も弱かつたらどうなるの、
――うむ、さういふことも確かにあるな
そこで大西は考へこんだが
適当な答へを引きだすことができ
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