窓口から
大金庫の中へはこぶ
運ぶ男はよぼよぼの老人で
この男は五十年来この単調な
仕事を繰り返してきた、
五十年来依然として小使で、
五十年来依然として忠実だ
お爺さんは銀行に勤めてゐるといふことに
なんの優越感ももつてゐないのに
近所合壁の住人共がうらやましがつてゐる
――とんでもないこと、
銀行に勤めてゐても
何ひとつ良いことはないだ、
まあ、良いことと言つたら
月々貰ふ給料の札を
折目のつかない新しいのを
貰ふ位のものでさあ、――
近所のものが紙幣の中に
埋もつて生活してゐる老小使の幸福を
うらやむと彼は決つて斯う答へるのだ、
爺にとつては銀行の中は
五十年来不思議な世界に見えてきた、
――明日は旦那さまが
銀行に御座らつしやるのだ、
爺はかう呟やきながら
みあげるやうに高い銀行の大円柱の下を
くるくる舞ひをしながら
床や大理石の汚れを汗みどろで拭いてゐる、
旦那さまとは老小使爺の旦那さまであり、
銀行員全部の旦那さまであり、
私の詩人の旦那さまであり、
あるひは読者諸君の旦那さまでもあるらしい、
すべての労働の与へ手であり、
数万人の売娼婦の養ひ手であり、
紙幣の図案の中から
ぬけだしてきたやうな恰幅のよい、
つまりイノシシの進化した形の
人であるらしい
将軍や政治家も
一目をいてゐるこの人のために
大衆の旦那さまと呼ぶことは
決して誤つてゐないだらう、
爺が明日銀行にやつてくる
重役よりももつと偉いこの人のために
如何に熱誠をもつて汚れた
石の階段を力をこめて
拭いたかを読者は想像してほしい、
退けの時間がきた
銀行の玄関の蛇腹はいつたん降りた、
だが今日は銀行員は帰られない、
再び鉄の蛇腹はガラガラ
音たてて巻き上つた、
夕暮の街には一斉に灯はともり
ネオンサインの五彩の色も輝きを増すころ、
時ならぬ銀行のどよめきと
シャンデリアの明るさに
通行人は何事が起つたかと
銀行の前に集つてくる、
――また五・一五の二の舞でも始まつたんですか、
――共産党の銀行ギャングでも
どうもさうでもないらしい
――全員集まれ、
カン高い声がすると銀行員達は
ぞろぞろと列をつくつて奥から出てくる、
大玄関に学生のやうに
ずらりと整列する、
――今日は彼女と活動の約束をしてゐたのに
――勤務以外のこんなことは嫌だね
とぶつぶつ銀行員達は不平をいつ
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