「気をつけ―」「頭を右ィ」
なんて響き渡る、帝国主義の号令の声だ、
その声はホールの中ではなく
野天で高いのだ、老いたる伍長の職業的に高い声だらう、
6
可哀さうに旦那も歌ひましたよ、
クロチキンの詩ダルゴミジスキーの曲
劇詩「老いたる伍長」を旦那は感慨ぶかさうに歌つた、
旦那のいつもの癖、ピアノの蓋を手でさすつたり、
撫でたり、指で拍子をとつたりして
大きな胴体の中の風の袋を
全く良い音にしぼりあげて出した。
足を揃へ、オイ銃を下すな
俺はパイプをもつてゐる
最後の別れだ、
送つてくれ
俺は君等の親父だよ、
頭も此の通り白髪だよ、
これが軍隊の生活だ、
足を揃へて―オイチ、ニ、
気をつけ、右へならヘ
オイチ、ニ、オイチ、ニ、
(劇詩「老いたる伍長」の歌詞から)
破れるやうな拍手の中に
老いたる伍長シャリアピン
「芸術のために」オイチ、ニ、オイチ、ニ、
と労働者の聴衆ではなく
所謂|上流の席上《ヲプシチエストヴオ》の歌ひ手として、
オイチニ、オイチニ、と歌うたふ、
「ロシアに偉大なる芸術あり」
といふ宣伝旅行の役割を
旦那が果してゐるだらうか、残念ながら、
「ロシアに頑固なる芸術家あり」
といふことを吹聴してあるくやうなものだ
7
頑固な見本がも一つある
それはソビヱットの生理学者六十余歳の
バブロフ教授だ、
一九一五年の或る朝
助手が二十分程遅刻して研究室にやつてきた、
彼の顔はまつ青で、心も落着いてゐない、
「なぜ遅れてきたのか」
すると若い研究生は答へた。
「先生、街は、革命の市街戦でした、
やつとこゝまで弾丸の下をくぐつて―」
すると教授は不機嫌な顔をした
「革命は革命だ、研究は、研究だ、
なんの関係もない、遅刻することはよろしくない、
さあすぐ研究にかゝり給へ―」
8
多くの学者達が、革命勃発といつしよに、国外に走つた
バブロフ教授は
「ロシアはわしの永遠の祖国じや
政体はなんに変らうが、
わしは一歩もロシアを去らんわい」
と頑固に饑餓の中で研究をつづけてゐた
間もなく「バブロフを救へ」の声が起こつた
これは愛すべき頑固の一種だ、
シャリアピンも新しいロシアに一時踏み止まつて
新共和国のために貢献したが、
欧米巡業に出たきり
その儘亡命芸術家の群に投じて
どうしても
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