ットの犬を
乗せてきた方が、ずつと気楽だつた、
私のやうにソビヱットを
逃げ出したい奴が沢山ゐたのだから。
機関士
新しい世界を
古い自由の物指しではからうとする者は、
ソビヱットでは総べて苦しいのだ、
これらの毛のぬけた犬や鼠は
ソビヱットの袋の中にゐる。
君も私も、その新しい袋の中で
古い要素と闘つてきたし、
また自分自身の心の中の悪漢とも闘つてきた。
試験飛行のために、
新しいモーターを装備して
我々の飛行機は離陸した――。
我々に与へられたものは飛行機であつて、
決して脱落の自由ではなかつた、
ソビヱットを飛び去る自由ではなかつた筈だ。
操縦士
私にとつて試練の日であつた――、
出発の時、隊長は
燃えるやうな激しい眼をもつて
じつと私の眼の中をみたやうに思ふ。
私はその時、強い衝動と意志を
眼をもつて表示した、
だが、私の飛行機が灰色の雲に分け入つた瞬間、
私は雲の中に、無数の物の形を見た――。
人間の形は私にかう呼びかけた
――吾が子ワフラメヱフよ、
父はお前のソビヱットに反抗した、
そして殺された、
吾が子よ、
吾が子よ、
お前は善人に仕へてゐるのか、
悪人に仕へてゐるのか。
私の頭は混乱し、
手はまるで意志に反したやうに、
しだいしだいに眼に見えない幻影に
押しやられるやうに、
南へ南へと舵をとり
あぶら汗をながしつゝ私は必死と《ママ》たたかひ、
北へ――北へ、と舵を向けるのに、
何といふことだ、
意志の気流は南へ――南へ、と流れた、
それが私の必然的な運命だ、
あゝ、だが私の座席の傍に
おそろしいものをみた、
ドミトリーよ、
それは君だつた、
君はなんといふ同志的な愛をもつて――。
鉄のやうな冷静さをもつて――。
たえず微笑しつゝ
私の脱走の為めの飛ぶが儘にまかしておくのだ、
君は私にかはつて操縦席に着かうともしない。
君は拳銃をもつて私を射殺しようともしない。
君はパラシュートで降りようともしない。
ドミトリーよ、
いま我々の飛行機はソビヱットを、
離れつゝある、
君は、早く君自身の処置をとつてくれ、
君は、君の愛するものを離れつゝある、
君はソビヱットを愛してゐるのか、
それとも愛してゐないのか、言へ。
機関士
私はソビヱットを愛してゐる、
そのためにこそ――。
私は私の愛する君と、行動を共にする。
雲の中に君は父親の幻影を見給へ、
私もそれを見よう、
君の父の死は、
曾つて歴史に現はれたことがない
新しい死のタイプだ。
ソビヱットに反逆する人々を
我々はギロチンの上へおくる。
そして貴重な生命を断つ――。
人間を死に導く権利を
いまほど正しく行使することが出来る時代が、
人類の歴史が始まつて以来あつたか?
そこでは物盗りを死刑するやうにではない、
強姦者を処刑するやうにではない、
新しい階級的犯罪に
新しい死のタイプを我々が与へるのだ。
友よ、君は父の死を解決せよ、
雲の中の、追想の糸を断ちきれ、
理解しろ、ソビヱットのあらゆる事件を、
操縦士
ドミトリー君、
親切な友よ、
だが、すでに遅い、
私の操縦士は、破れた胸から
二つの翼をひきだしたのだ、
精神の均斉のない鳥が
どうして満足に自分のネグラに帰れるだらう。
思つても私は怖ろしいのだ、
軍隊では上から下まで
厳罰主義でつらぬかれてゐる。
笑ひながら上官は部下をうつ、
部下は笑ひながら打たれる、
あいつらの苦痛の性質がまるでちがふんだ。
なんといふ理解しがたいことだ。
機関士
力尽きた鳥よ、
聴け、発動機の音を――、
お前の咽喉は異様に鳴つてきた。
のぞいてごらん、
ガソリン検量器を、
あゝ、まもなくガソリンは尽きるだらう。
帯のやうに白く見えるウスリイ鉄道、
沿線の街々よ、
イマンの街よ、
プロハスコよ、
ウスリイよ、
クラヱフスキイよ、
街・街よ、空を漂泊する我々の
よろめく足取りに驚ろいてくれるな
露満国境の線を縫つてとぶ、
千鳥足の苦悶を、あざ笑へ、
ソビヱットから平穏を
急速にのぞむものが、次々と現はれる
新しい苦しみの登場に堪へなかつたのだ、
そして陥るところの心理的空白の路
またはソビヱットに対する
一面的狂信主義者がたどる幻滅の路、
これらの人々の路はこゝの国境に展けてゐる。
操縦士
赤い土地から、白い風穴へ、
おちこんだ私だ、
北から南へ押しながされる私だ。
ヨーロッパや東洋は私を歓迎するだらう
其処では私の脱落者は、賞讃されるだらう、
ソビヱットを語れといふだらう。
唇が足まで垂れ下つた
鉄の妖怪の正体を語れといふだらう。
新聞記者は私達を取り囲んで
一日に黒パンを幾ポンド支給されるかとか、
強制労働は苦痛だらうとか、
常識的な質問をし
私はこれに常識的な答をするだらう。
ソビヱットの苦痛は
黒パンの量や、強制労働や、
隊の規律にあるのではない。
もつとふかい人間的な処に
あることを知らない人々にとつて、
私の脱走は、ついに理解されることはないだらう。
機関士
君の心の中の浚渫船、
古い泥の掻ひ出しの仕事を停めた、
瞬間、君には寂寥がきた、
時代は青年のものだ――とレーニンは言つた。
だが今ではその言葉も古い、
ソビヱットではすでに
時代は少年のものとさへなつてゐる。
ピオニールの若々しい歌声と
旗をもつた隊列の
なんといふ元気なことよ、
これらの少年たちには古い苦痛がない、
すべて新しいところから出発し、
新しいたたかひに入つてゆく、
ワフラメヱフよ、
君は古さと新しさとの
激動の世界に住むことに敗れた。
操縦士
私はやぶれた。
ドミトリー君よ、
だが君は敗れてはゐない――。
君は私の脱落の同伴者とならうとする、
私の理解しがたいことだ――。
君はとどまれ、
君にとつて輝やかしい祖国へ、
それがもつとも正しい路のやうに思ふ、
君は東洋やヨーロッパが
どのやうなところか想像してみ給へ、
そこにはソビヱットのやうな苦痛がない、
私の求める平穏がある――。
死の平穏が――。
機関士
そうだ死の平穏が――。
底には激しい動揺の苦痛が、
私はそれを怖れないだらう。
私は国境を守備するものだ。
同時に、国境を無視するものだ。
私は君とともに幾つでも国境を越えて行かう。
君は知つてゐるだらう、
ドン地方のコサック騎兵たちが
外国へ亡命したことを、
彼等は二十三人で合唱団をつくつた、
彼等はヨーロッパの街々を
オレグ公の歌や、
赤いサラファンの歌を、
今でもかなしげに歌ひ漂泊してゐる、
君と私も彼等のやうに
幾アルシンかの羅紗を二つに分けて
肩に背負つて港々を漂泊しよう、
ヨーロッパや東洋の人々はいふだらう。
あそこに祖国を失つたものが、
惨めな人間の見本があると、
それが真実だと――。
それは真実にはちがひない
ただ我々の真実であり
ソビヱットの真実の、全部ではないだらう。
操縦士
ドミトリーよ、
こゝはもう満洲国だよ、
光つてゐるのは、
興凱湖だらう、
私は理解しがたい君の愛情を乗せたまゝ、
私の白鳥は羽を湖の上に降さねばならない。
機関士
友よ、私に遠慮なしに湖に羽をおろせ、
私の愛は永遠にして
国境を越えることを恐れない、
曾つて古いロシアでは
湖に降りたつた白鳥が
湖面の水に波紋をつくつて
瀕死の姿態をつくることを
この上もなく美しいものとした、
あゝ我々の瀕死の白鳥は
いま湖に降りようとする、
新しいロシアにとつてそれは
何の魅力もなく美しいものでもない、
こゝには我々の痙攣があり、
水に消えさる苦悶があり、
そして波紋は瞬間にして去つてゆく。
死界から
君達は生きた人間の世界を
私は死んだ人間の世界を
生と死とこの二つの世界を
君達と私とで占有しよう、
そして二つの世界に属しない
ものたちを挟み撃しよう、
二つの世界に属しないものが
果してあるか、
ある――、
生きてゐることにも
死んだことにもならないものが、
死を怖れなかつた時代よ、
肉体から
最後の一滴の血を
したたり落す瞬間まで
死の怖ろしさを
知らなかつた男のために、
私は死の門をひらいてやらない、
そいつの霊よ、
勝手なところへ迷つて行け、
我々の死界には
何の機関もない、
死んだもののためには
生の世界の君達記録係りが
ペンをとりあげよ、
更に生きてゐる人間の
行動の正しい評価のために
君らの世界に
新しい墓標を数かぎりなく
立てたらいゝ、
生きた世界には
死の自由人が多い、
彼が死を怖れないことが
完全だといふ意味で
彼の自由であり
また無力であつた、
私はこの死の極左主義者のために
私の死の門を開いてやらない、
すべての自由とは
意識された必然ではないのか、
死も勿論生の感動に
答へるほどの高さになければ
君の人間としての
肉体は滅びて
一匹の蛆虫を生かすにすぎない、
君の考へは何処に生き
どこに記録されたか、
盲者よ、
君は幾人の
労働者をふるひたたせ、
コンニャク版で
幾枚の宣言を刷つたか、
幾度、幾本の橋を渡り
幾度女にふれたか、
公開し給へ、
君は死んでゐる
君は語ることができまい
君が意志を伝達したものが
それを後世に伝へるだけだ、
だが誰も証明し
伝達しない、
君の霊は迷ふだけだ、
狭い自己の必然性に
甘えて脱落し
死んでいつたものよ、
英雄らしく捕へられて
小人らしく獄舎に悩んだものよ、
なぜ逆でないのか、
小人らしく捕へられて
英雄的に死んでいつた
無数の謙遜な友を私は知つてゐる、
死の軽忽は責められない、
彼は追はれた、
右のポケットに手を突込んだ、
そこに短銃はなかつた
あわてゝ彼は左のポケットを探した
そこにはそれがあつた、
彼は己れのコメカミを射撃する、
その戸まどひは
愛すべきものだ、
人間的なこの男の真実は
決して右にも左にも
どちらのポケットにも無かつた、
真実はその中間にあつたのだ、
それは頭脳の位置にあつただらう、
私は死界から
濃藍色の生の世界を見透す
じつと諸君の傍の
赤いランプをみまもつてゐる
光りと生命の明滅を、
フッと光りは消された
暗黒の中に諸君と
私は何を待つてゐるのか、
知れたことだ、
灯を点じられることを待つてゐる、
時間の変化の中に
点じられない洋燈《ランプ》を
おくことは良くない、
生と死との瞬きの火、
近づき難いものに
近づくことのできる
最初の男達は
マッチのやうに燃え尽きるだらう、
そして完全に灯はともるだらう、
私は彼のために死の門を開かう、
死界へは生の感動を
土産にもつてきてくれ、
死んで世迷ひ言をいふ手輩は
死の門の鉄扉の前にいたづらに騒ぐ
脱落に生きて
物言ふものは
焦燥と無感動とに
もの言ふたびに己れの舌を噛む、
沈黙をしてゐる義務を
与へられてゐることを彼は知らないのだ、
美しい死者を迎へるために
門を化粧して私は待つ
素朴で激情的な
行為は讃へられよう、
死は前脚で
生は後脚
後脚はいつも
前脚にオベッカを使ふ、
このチンバの馬の
醜態のために
いたづらに土は荒らされる。
駿馬の闊達とした足なみの
美しい調和よ、
生死の感動の高まりのために
私は死の門を開放するだらう。
百姓雑兵
草原に鯨波《とき》の声はきこえてきた、
腸《はらわた》にひゞきわたる陣太鼓
他人の首を獲る
権利を与へられたる大軍こゝにあり、
緋おどしの鎧は華美と位階と
敵に対する威嚇とを兼ね備へ
トツトツと馬を陣頭にすゝめてゆく、
――もの共、続けやあ――、
と武士は大音声に呼ばはつたり、
『もの共続けやあ』といふ命令を
現代語に訳してみると
『物質共続けやあ』といふことになる、
すると物質共は、
わあ、わあ叫喚し
味方の大将を死なすなと
雑兵達争つて
敵方の陣に突込む、
――我こそは一番槍なり
――続いて太倉源五郎、二番槍なり、
――味方の大将こそは
我が武勇の程を賞覧あれ、
『天晴れ、出かしたり、勇猛なり、』
みどりの草原に濛塵たち
オレンヂ色の夕映を背景にして
敵味方、真紅の血をながす、
自然も、旗も、人々
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