伝へたい、
兄弟子は私に言ふ、
――君は、綱をもつと動かすんだね、
私は驚ろいて彼の顔を見あげた、
顕微鏡的眼ではなくて、
生きた眼で綱をみよう、
また綱を正しい綱の太さとしてみよう、
然し綱は危険にさらされてゐるのだ、
これは動かぬものとして考へる以外に
渡り方があらうか、
それに兄弟子は――
綱を現実を――更に動かせといふ
私はすべてを諒解した
ゆらり、ゆらり、と綱を動かして見た、
私はその動かし方を次第に強く
もつとも調和的な形で
綱を自分自身で牽制してみた、
すべてが、うまくいつた、
何といふ現実だらう、
おゝ、綱よ、私のものよ、
自由よ、
私は綱に勝つたのだ、
すばらしいことだ、私は綱の上で笑ふ
観客が一人一人はつきりと見える、
私は綱の上でげらげらと笑ひ、
観客に向つて叫ぶ
――理想が人間をとらへるんぢやない。
――人間が理想をとらへるんだ。
――綱がおれを動かすんぢやない。
――おれが綱を動かしてやるんだ。
――友よ、観客よ、靴屋よ、文士よ、
 君等も君等の現実を
 狼のやうに咬へてふりまはせ。

観客諸君――、
私は何時かこの綱の上から墜ちて死ぬだらう、
私の墜落はニュートンの引力の法則に依る、
だが友よ、
綱渡りが現実を踏みはずして落ちて死ぬ必然性を
私は頭から信じはしない、
ブハーリンならかういふだらう、
綱渡りが偶然に落ちることなどはない
みな必然的な理由によると、
彼氏一流の偶然性の否定をやるだらう、
だが私の綱渡りの経験では
困難な仕事には、
それだけ大きな偶然性も現れるのだ、
私の墜死を自殺として片附けてくれるな、
脱落者の心理を
理解し得ないものは
君もまた脱落者となる資格があるぞ――
私は落ちた――。
だが見給へ私の兄弟子や
たくさんの綱渡りたちは立派に
今でも依然として綱を渡つてゐる
事実に眼を向け給へ、
その方がずつと重要なのだ、
おゝ、私は綱と格闘しよう、
おゝ、更に私の綱に私の力を加へよう、
そして私の綱は小屋掛けをさへゆり動かす、
嵐はしだいに強く小屋をゆりうごかす、
私が綱とたたかふこと
それは私が嵐と闘つてゐることになる
私は笑ふ生活のために、
高い綱の上から諸君をながめながら。
観客の中でいちばん美しい娘さんに秋波《ながしめ》した、
私の浮気よ、
余裕綽綽たる私の現実、
小屋がはねて人々は去つた、
舞台の上のアセチリン瓦斯は吹き消され、
巨大な獣の舌のやうな
赤い緞帳がガランとした、
小屋の中に垂れさがつてゐる、
楽屋で私はオスカア・ワイルドの服をぬぎすてて、
外出しようと木戸口へ廻ると、
そこの暗がりに一人の若い女が立つてゐた、
あゝ、それは私が生命がけの綱の上で
娘に投げたかりそめの恋のながしめに、
娘は私を待つてゐてくれた
私は娘を抱いて熱い熱い接吻した、
おゝ、現実とはこのやうに素晴らしいものか



移民通信


車中から(第一信)

日本のルンペン諸君に向つて
移民団第一信をぶつ放す
残飯の栄養カロリーについて
橋の下で議論した、親愛なる友よ。
とにかく無性に、おれは今嬉しいんだ、
よく似合つた、おれのカーキ服を、うらやめ、うらやめ、
てめい、ロクでなし、シラミの倉庫、
歯を磨かねい階級、国家の徒食者。
神田、日本橋、浅草の町裏の、うろつき者共よ。
おれのやうに上着から、シャツ、股引、
褌まで新しい奴に着換へるなんて
てめい等は一生かかつてもできまい、
今頃は、お前は相変らずオンボロ、オンボロ、
長いボロ着のお引きずり
ワカメの行列だ、
舗道に唾をベッとはいて
ぶつぶつ呟やいてゐるだらう。
おれたち移民四十八名は
もう間もなく、下関に着く
引率者は良い男だ、
女のやうに優しく、
おれたちに平等で、親切で、良い監督だ、
育ちがいゝから鷹揚で
煙草は何時も気前よくくれる、
おれは、てめいを恨んだよ、
てめいが人間の皮かぶつてゐるんなら、
友達つきあひで
東京駅へ万歳の一つ位言ひに
来てもいゝと思つたもんだ、
見送りにも来ねい義理知らずと
おれは、一時はカッと腹が立つたが
考へてみれば
お前の、その格好ぢや
改札口は通すまいからな、
お前の汚ない格好では
俺は肩身が狭いからな、
見送りに来てくれなくて助かつたよ、
俺は今ぢや、もうルンペンぢやない
お前と俺とは人間のケタがちがつてしまつた、
てめいとは、もう友達でない、
これを縁切りの手紙と思へ
満洲へ着いたら、片手に銃、
片手に鍬、種をまいたり匪賊を追つ払つたり、
おゝ、急がしい、急がしいことだらう、
これで、てめいに手紙は出さない。


海峡から(第二信)

親愛なる日本のルンペン諸君、
俺にもう一ぺんだけ手紙を書かしてくれよ、
おれは相変らずヨダレがでてきて
しやうがないんだ、
ぬぐつても、ぬぐつても、
ダラダラ垂れや
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