純化は
とんでもない嘘つぱちだ、
綱渡りの現実を知らない人間のために、
私はこの長詩をポケットに
何時も忍ばしておくのだ、

私たち綱渡りは最初みな経験主義者だつた
私たちは最初落ちることから教はつた、
低いところに綱を張つて
渡つては落ち、落ちては渡る、
フローベルといふ小説家が、
ヱンマといふ人物の毒死を書くのに
自分で砒素をなめて味はつてみたやうに、
私達綱渡りは実験的用意から始めた
私にとつて現実とは
綱の上より他にはない。
綱の上を渡ることが生活の全部だ。
親方の鞭は、ピューピュー私の後で鳴る。
私の少年綱渡りたちは泣いた。
――現実を渡ることは
 なんといふ神経の悩みだらう。
 あの兄弟子たちは
 見あげるやうな恐ろしい高さを
 どうして危なげもなく
 上手に渡れるんだらうね。
私は間もなく幾分高い綱を渡ることができた、
下から親方は私に向つて叫ぶ、
――そんな格好ぢや、落つこちるぞ、
 姿勢を崩しちやだめだ、
 危いつ――もつと突込んで、
 もつと突込むんだ、
私は最初は親方のいふ、
突込めといふ掛声の意味が判らなかつた、
――突込めとは
 お前の生きた二つの眼で
 綱を力いつぱい凝視《みつ》めろつてことだ、
 綱渡り商売は
 すべて現実主義者でなくちや駄目だ、
 綱の上で惚れた女のことを
 考へちやー真逆さまだぞ、
一度は落ちて腰をくぢいた
一度は額を割つた
なんて綱を渡ることの血まみれのことよ
ある日、親方の部屋へ駈けこんで
――親方、
 けふは一番てつぺんを渡らして貰ひませう、
と言うと親方はハタと膝をうつて
――おゝ、たうとうお前も
 一人前になつたのか、
 どうだ、綱が四斗樽のやうに
 太く見えるだらう――。
――親方ほんとうに綱が四斗樽のやうに太く、
あゝ、なんといふ不思議なことだらう、
血と肉と神経とを費して、
綱を渡つた
見おろす綱の下、空間は
私にとつては横たはる死であつた、
現実とは死の上に
かけられた一本の綱か
そして何といふ綱の細さよ、
生命の継続の飢ゑよ、
生と死との矛盾の見世物よ、
お客さん達は
私の渡ることよりも
私の落ちることを待ち構へてゐるやうだ
無事に綱を渡つて
高い竹梯子を降りてくると
お客は腹では残念がつて、
手ではカッサイした、
私は嬉しいよりも癪にさはつた、
私はお客に向つて心に怒鳴つた
――お客よ、
 靴屋よ、
 お前の現実は
 靴以外には無いくせに、
 お前が靴の寸法を間違へたら
 私が喝采してやらうか。
――お客よ、
 文士よ、
 お前の現実は
 原稿紙の枠を埋める以外にないくせに、
 お前が駄作を書いたら
 私が喝采してやらうか。
綱の上の私をして間もなく
新しい生活が悦こびを充満させた。
じつと綱をみつめてゐると
綱の細い輪郭はふくれ
しだいに太く見えだした。
四斗樽ほどにも太い連続に――、
そこへ一歩を踏みだすことが容易になつた、
現実の拡大か。
それとも現実からの
新しい現実のつまみ出しか。
とにかく、私は平地を歩るくやうな
安心さで、高いところの綱の上を渡る。
一粒の米をみてゐると、
こいつも味噌樽位の大きさに見える、
すばらしいぞ、
失業をしたら、一粒の米に、
般若心経二百六十二字を書いて
売つて暮らさうか――。
私はこの経験を兄弟子に語ると
兄弟子は眉をひそめながら私に言ふ
――可愛いタワリシチよ
 おゝ、それは正しくない、
 綱は決して四斗樽の太さぢやない、
 綱はあくまで綱の太さに尽きる、
 君の綱の見方は
 顕微鏡的現実だよ、
 君は正しいリアリストぢやないよ、
 君は間もなく落つこちるだらう、
 批評家、親方の――突込めの掛声に
 うつかり乗つたら大変なことになるよ、
親方はまた私に言ふのだ、
――綱の上で、もつと愛嬌をふりまくんだね、
 あんなしかめつらでは
 お客の人気が悪い
恐怖そのものだ、
私の生きた眼は顕微鏡になつたのだらうか、
あゝ、しかも死の上の現実には
しかめ面《つら》以外に表情がないではないか、
それに親方は笑へといふ、
真珠釦に、茶褐色筋入半ズボン
髪は鳶色、青い靴下、
薔薇の花を帽子にさして簪のやうだ、
幅広のカラーに
ゆつたりと結んだ桃色ネクタイ
これが私の服装、
オスカア・ワイルド風の
唯美派の道化服の手前、
綱の上で悲劇的なツラをすることが
調和的でないことを私は知つてゐる
だが別な批評家は私にいふのだ、
それで良いんだと――、
現実主義とはすべて悲劇的なツラであると――。
私もそれを正しいと思つた、
苦痛の中から
どうして笑ひをヒリ出すことが出来るか、
親方の私に要求する笑ひは
彼の営業政策からだらう、
それは先づいゝとして、私は私自身で
綱の上から真実に笑ひたいんだ――。
観客に向つて、こぼれるやうな、
笑ひを
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