の詩を五行の
印象批評で片づけてしまふ
彼の批評のすばらしさよ、
私の詩がヂャアナリズムに乗つた時
その瞬間彼は私の詩をとりあげた
その瞬間私は恥辱を感じた、
同時に彼が我々の陣容の
よき護り手ではなく
単なるヂャアナリズムの用心棒であることを暴露して。
彼のもつてゐる批評の尺度と
ヂャアナリズムの尺度との
何といふ偶然的な一致よ、
プロレタリア作家たちよ、
我々は批評を恐れてはならない、
私はほめられると嬉しい、
また悪く言はれると腹が立つ
だがそれはほんの眼をパチリと
まばたく間だけのことだ、
実は今では私は褒められても嬉しくなければ、
悪く言はれても腹がたたなくなつた、
真実な批評家のみが我々を感動させる、
彼を指して
理論や批評をもつて
大衆を正しい方向に導いてゐるものと考へちがひをするな、
実は彼は批評ではなく
大衆や作家にむかつて恐喝文を書いてゐるのだ、
脅やかしてまで大衆を
己れの方向にむかはせようとする
彼の理論は
将にファシスト的色彩を帯びてきた、
真理に熱心だといふこと――、
なんといふ涙ぐましいことか、
然しあまりに熱心さの故に
われわれは彼のやうに
恐ろしい独断
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