、装飾された花電燈の青と赤のイルミネイションのうすぺらな燐光に眩惑されて墓場に生えたぺんぺん草の僅な一片より価値もない安物の陶器ぢやないか、誰も彼《か》もみんな新しい洋服を脱ぎ捨て素ッ裸で街の炎天に立つて見ろ、ルーソーのやうな真剣な歩行を続けてみろ俺達も君等も硝子屑を踏んだ足の裏から真赤な鮮血も流れ出ない不純に枯れきつた肉体ではないかもう取り返しの出来ない出産ではないか、まことに彼は真剣な馬鹿者であり愚鈍なる白痴であらうが私は彼の芸術に奥深き真夜中の凝視と原始林のトヲメイなる思索または静かなる冥想の現実を発見しまたなく共鳴と思慕の讃辞を惜しまない、雨の如く閑寂に暴風雨《あらし》のごとく静止に描き出されたルーソーの芸術こそは我等変態なる人間、ぺらぺらの畸形児にはあまりにも激しき鉄槌の肝銘であり、恐怖であるのだ。彼を現実と幻影をしらない記憶と現在との差別を忘れた白痴と思ふのは間違ひだ、彼は赤裸《あかはだか》に生長した精虫のやうにあまりに痛々しく人生を知りあまりにも可憐に現実の姿を見る苦労人でこのかくれたる敏感な表現はいたましいほどの弱々しい人間、ただ鈍重は[#「は」に「ママ」の注記]真直な通路を歩みつゞける偉大なる感情の忍苦者である。我等はこの地上に讃歌を捧げ大いなる白痴者の足跡に礼拝しルーソーの広き自画像の額に接吻しいづこか自然の一角を凝視する鈍重に澄める瞳の洗礼をうけよ、苦悩は路傍の樹木に発生したる雑草の芽にはぐくまれ黒き冬空の単色《たんしき》にみいだすやうに、思索はルーソーの愚鈍に白痴に、またアンリー、マティスの単純に潜まれてゐるのだこの我等現実の華やかになやましい管絃楽の思索を拾ふよりも何処か手近な場末の幽暗の中から聞えてくる笛の音を拾ひ給へ。
あゝ我々若き思索者よこの水底にひそまれる青銅の壺はさんとして光輝を放つ愛人、我等が救ひ手を待つ思慕者、ともすれば忘れがちなる霧のやうなる対照のなかにこそ我等がのぞむ思索がありアンリー、ルーソーのなまぬるき白痴のごとき冥想のなかにこそ蒼白な激情に燃える火のごとき苦悩のひそまれることを。 一九二四・二


歩き出す情慾

きみらは共同便所の
しろい壁に描かれた奇態な楽[#「楽」に「ママ」の注記]書
きいろい象形文字を愛読したか
あれが歩き出す情慾の手記だ
情念は風のやうにすばやく
こんやもそつと
寝床にしのびこんだが
私の情慾はぎあまんに盛られた
冷酒のやうに
しみじみと視つめて楽しむ観賞物心臓病者の
まつ青なよつぱらひである
   ◇
私は冒[#「冒」に「ママ」の注記]険な情慾が大好きだ
いつかも
あるき出す情慾の群にまぢつて
人ごみの中で
若い女の懐中の
財布をねらつたが……
   ◇
すつた財布の中はからつぽで
私と女は笑つて別れた


煙草の感情手品

女よ
私のこれからはじめる
感情手品を
じつと遠くから見物してゐ給へ
これを貴女への
返事にかへませう
   ×
さあ…これは一本の煙草です
つぎに口にくわへて
その煙草に
情熱のマッチを
摺つたのは貴女なのです
   ×
たしかに貴女は火をつけた
種も仕掛けもない奇術でした
   ×
まづ私の太夫さんは
ゆつくりと煙草を吸つて
ゆつくりと鼻から煙を出して
もう、もうと靄のやうに
たちこめる、けむりの中で
にやにやと
笑ひながら吸つたことか
ちどんな貴女の感づかない
それはあざやかな手際です
   ×
女よ
貴女は煙草の吸ひ殻を
拾つてお帰りなさい


春情――三人集――

春だ四月だ……
煙草のけむり輪にふいて
橋のたもとで空をながめた
   ×
濃霧《がす》の街を
げらげら笑つて直白な
女が通つた……春だ四月だ


炭坑夫と月――夕張印象――

ああ 私の亀裂をまさぐる斜坑の上の地面で
たくさんの青い松の眼球を拾つた夕暮れです
まぐねしゆうむ[#「まぐねしゆうむ」に傍点]とだいなまいと[#「だいなまいと」に傍点]を
喰《くら》つた亭主の股引が
ほんのり桜のやうに干されてゐた日没ころ
そろそろと月が昇つてしまつた
  …………
淫売屋《ごけや》の小格子から
空をながめる私の炭坑夫
ちらばつてしまつた紫外線を
いくら喰つても
肺患のなほらない月である
  …………
とろつこ
とろつことろつこ
明日はまた運搬の作業である


愛奴憐愍

ああ見れば見るほど
悲しい歩行であつたか
砂地のすばらしく巨大な足跡、

河原で銀斑魚《やまべ》を乾し
岩魚《いわな》の奇怪な赤腹をもて遊び
猿蟹を石に砕いて嬉戯した時代からの
部落《こたん》に満ちあふれた誇も消滅した、
私の憐愍はお前の足跡に
かんぞ[#「かんぞ」に傍点]の花に降り注ぐ雨のやうだ

ああ年々《ねんねん》お前の仲の善い鮭《あきあじ》は死産し
河原の砂の巨大な赤児
ぼつこ[#「ぼつこ」に傍点]な鮭皮靴《けり》の足跡は砂金のやうだ


海景

さくらんぼを喰べたい海の色よ青い色よ
まなつのうみの風の色よ
みな眼にしみる静かなる海景にたつて
わたしは女のふとももの肉をかぢつたので
わたしの義歯は
とけてながれて飛んでしまつた。
あんな浅瀬に
食慾をそそる赤い魚を二ひき
もつれあつて泳がしてをくのは危険だ
石を水に放つてやれ。

涼しい帆前船が浮んでゐる沈んでゐる
大きくふくれたり。小さくちぢまつたり
黄色い積荷がぴかぴか光る。

海いつぱいにひろがつてゐる軍艦に
しろいしやつぽ[#「しやつぽ」に傍点]がいちれつに
いかにも退屈に左右にならんでゐる
ずどん……と大砲を撃つてやつたら
兵隊がまりのやうにとびあがるだらう。

太陽がくるくる廻つてゐる真夏の海景に
わたしの貧乏までが水浴がしたいと
口からとびだして白眼を要求した
こんなぜいたくな海景は消えてしまへ
わたしにとつては無益の風景だ。


蝦夷

私の蝦夷は蠢めきにある
四周は荒海
寒冷の白さに凍えてしまひ
惨苦は四季に
慈母よりも柔和にめぐり来つて
五体は燃え尽きさうだ

憂悶の暮色に立つて
季節を愛する男
痩白の頬に手を触れて
存分に神に憎まれて笑つてゐる
海は絶えず新らしい匂ひを漂はし
砂丘を掘れば
春秋の夜光珠探しあてる。


北国人

四季の蒼穹
偉大なる顔の中の眼だ
そこに闘ふ男は血である

頭脳は棍棒のやうに重み
心臓は石斧の閃き
ああ我等北方人の頭上には
砧のやうに澄んだ蒼穹がある

或日は砂金を含むだ嵐
或日は霜花と濃霧の日
或日は野火の草木は炎上し
或日は清朗とした盆花の吹雪となる

我等よ
石斧と棍棒の進軍
久しく自然の肌を闘伐するもの
四季の蒼穹に生活し
期節の忍苦に呼吸するものは肥大となる


妊娠した石

月は実にたかく昇つた
くまどられた白銀の樹林の上に。

白い偉大な空地に
死よりも静かな石が
火のついた赤児のやうに
鋭い陣痛に泣き叫び
直立した感情はあくまで激動する。
春よ、
来よ、
受胎におののく圧迫と寒冷の季節から
石と石との間に
青いいのちの燃える日を、


無神の馬

私の虚無は
悔恨の苺を籠に盛つてゐる
私は喰べながら笑ひ泣き悲しみ怒り
朝日が昇るとけろりとしてゐた

愛するものは貝殻のやうに
脊中にしがみついて離れない
愛は永遠の喜ばしい重荷だ

街に放された馬
ああ それは私の無神の馬だ
毛皮は疲労して醜く密生し
光のない草地に平気で立つてゐる。


日没の樹

柔らかい黄金樹木は
いつぺんに音も無く倒れかける
人々は埃の中で蘇生した
影は重なり合ひ無数に馳けだす。

山火事のやうに
輝やくなかに立つてゐるのは
新らしい病気を憬れてゐる
労役に疲れてゐる家畜の眼だ。

火は燃え
街の黒い多角形の空いちめん
死滅の揺籃はゆらぎ
そして大きな児供は夢を見始める。


結晶されたもの

慾情
それは私の樹の実だ
波と押し寄せる美しいものだ
私の馬に与へられた積荷だ。

逃れようとする愚と
廻り路をしようとする
空々しい努力を廃せ
私の四肢は無限な土の上の児供
絶えず動きよく笑ふ者よ。

地上に棲家ももてない神は
白眼をつかつて呼びかける
私は結晶された血
安易な眠りを欲しない。


雪の夕餉

背後から紫色にまた
いくつもの紅の輪を重ねた風が
小児のやうに馳ける。

黄昏どきの雪の街
ほのぼのと魚の片腹身を焼く
夕餉の匂ひが煙つて来た。

私の病患は実に淑やかに
北方の白い沼地に沈むやうだ
失はれてゆく色濃い雪のやうに
厚い毛皮の重たさに張りつけられ。

夜の暗がりは真先に私を射て
激しい青ざめた獣の
枯れた樹間の寝床は
淋しい霜に閉ぢこめられる


窓をまもる男

その高窓は何事のために
まるみを帯た声音で終日鳴るのか
その窓が鳴れば
その窓の傍に立つた
背の高い男も晴ればれとしてくる
男は薄い頬とたくましい咽喉仏をもつた
守護神のやうにもきらめいて
緑色に燃える高窓をまもり暮らす。


掌に生へた草

せんさいな風に生きて
ふしぎに頬を打たれることもなく
私の占める座席は
針程のわづかな場所であるのか。

だがなんといふ青草の
精気はつらつとしてゐることか
私は草の食事をしてゐるのを見たことがないのに
私の住ま居の一隅に
いつのまにか歩いてきてゐるのだ

胃の腑のないものが
どうしてあんなに健康であらう。
私はいま掌の中に
草の生へるのを感じて慄然となる
まつたく彼は私の頭の上にでも、
肩の上にでも生へかねないのだ。


初雪の朝に

羞恥な女が谷間に下りたつたやうに
一夜にして私の眼界を洗清めた
ものしづかな白い世界よ

私はこの冷えた冬の期[#「期」に「ママ」の注記]節を
雷鳴のやんだあとの
深淵の傍らにゐるやうな寂しさを好む

乾いた唇も吹け
しわがれた咽喉も吹け
鼻毛をくすぐるほどの柔かい風に吹かれて
聡明なお前の風にふかれて
私は胸苦しいものを散らすであらう。


かなしき曙

亀裂のなかに立つてゐる
その辺りは曙であるのか
なんといふかなしい曙であらう。

たつたひとつ残つた星もある
河風は胸をうつて
忘れてゐたことを
つぎ/\と想ひ起すばかりだ。

ふたゝび仄明りを迎へて
このしづかな崖を跳ね越えて
私は顫へながら街にでかける。


二人の生活

柔軟な暮しの中から
なにか房々とした葡萄のやうなもの
魚の瞳と連なるものを発見した
そして久しく憎み合ひながら
ともに暮してゐる女あり。

あゝすでにお前と私とは
惰性の深みを手を組んでゐる
お前の意志は向ふの野原に
私の意志はこちらの樹の上に
それで不思議に優しいへだたりを
往来してゐ[#底本の「い」を変更]る可憐なふたり。

繋ぐものは灰のやうな乾いた麻繩ではない
鈴のやうな結晶を渉りあるくものである。
とかくうなだれ勝な頤に手を添へて
たがひに眼を見合すことや
また終日蟹のやうに向ひ合ひ坐つてゐる。

男は怠惰ではない
女よ、その懶さを責めるなかれ
脳はただお祝のやうに
無邪気な嬉しさで満ち足り
身を動かすことを重大に考へ
うねり、光り、華麗に、
坐りこんでゐるのであれば。

やがて何の跡形もなく
お前も私も散つてしまふであらう
あゝ、窓の外には
暗い冷たい幔幕が垂れ下り
花の上にも夕暮れがせまつてきた
艶々しい潮の上の
ただ一瞬の光りもの
葡萄の房のやうな帆をあげてゐる。


田舎の光沢

村よ、私の村よ、光つた村よ。
私が都会にゐてお前を想ふと
お前はかならず光つた衣服を着て現れてくる。

何も光沢物が
お前に附着してゐるとも思へないが、
樹木や、凸凹のある山道や、
萱葺の屋根や、村童の頭など、
みんな夜光虫のやうに
お前の皮膚が無数の生き物の艶で脹らんで現れる。
私はいま都会に住みながらも
決してお前の正確な顔形を忘却してはゐない。
私はお前をはげしく追想する、
お前は何時でも絶えることのない思慕の光り物だ。


潮騒

日本の負担は
二つの波だ、
太平洋と、日本海と、
そこには激しい満干がある。
波は重圧な呼吸をして
この狭い島嶼の上に
ちかぢかとその白い顔を寄せる。
だがなんといふ親密な
母親のやう
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