るやうな寂しさを好む

乾いた唇も吹け
しわがれた咽喉も吹け
鼻毛をくすぐるほどの柔かい風に吹かれて
聡明なお前の風にふかれて
私は胸苦しいものを散らすであらう。


かなしき曙

亀裂のなかに立つてゐる
その辺りは曙であるのか
なんといふかなしい曙であらう。

たつたひとつ残つた星もある
河風は胸をうつて
忘れてゐたことを
つぎ/\と想ひ起すばかりだ。

ふたゝび仄明りを迎へて
このしづかな崖を跳ね越えて
私は顫へながら街にでかける。


二人の生活

柔軟な暮しの中から
なにか房々とした葡萄のやうなもの
魚の瞳と連なるものを発見した
そして久しく憎み合ひながら
ともに暮してゐる女あり。

あゝすでにお前と私とは
惰性の深みを手を組んでゐる
お前の意志は向ふの野原に
私の意志はこちらの樹の上に
それで不思議に優しいへだたりを
往来してゐ[#底本の「い」を変更]る可憐なふたり。

繋ぐものは灰のやうな乾いた麻繩ではない
鈴のやうな結晶を渉りあるくものである。
とかくうなだれ勝な頤に手を添へて
たがひに眼を見合すことや
また終日蟹のやうに向ひ合ひ坐つてゐる。

男は怠惰ではない
女よ、その懶さを責めるなかれ
脳はただお祝のやうに
無邪気な嬉しさで満ち足り
身を動かすことを重大に考へ
うねり、光り、華麗に、
坐りこんでゐるのであれば。

やがて何の跡形もなく
お前も私も散つてしまふであらう
あゝ、窓の外には
暗い冷たい幔幕が垂れ下り
花の上にも夕暮れがせまつてきた
艶々しい潮の上の
ただ一瞬の光りもの
葡萄の房のやうな帆をあげてゐる。


田舎の光沢

村よ、私の村よ、光つた村よ。
私が都会にゐてお前を想ふと
お前はかならず光つた衣服を着て現れてくる。

何も光沢物が
お前に附着してゐるとも思へないが、
樹木や、凸凹のある山道や、
萱葺の屋根や、村童の頭など、
みんな夜光虫のやうに
お前の皮膚が無数の生き物の艶で脹らんで現れる。
私はいま都会に住みながらも
決してお前の正確な顔形を忘却してはゐない。
私はお前をはげしく追想する、
お前は何時でも絶えることのない思慕の光り物だ。


潮騒

日本の負担は
二つの波だ、
太平洋と、日本海と、
そこには激しい満干がある。
波は重圧な呼吸をして
この狭い島嶼の上に
ちかぢかとその白い顔を寄せる。
だがなんといふ親密な
母親のやうな海であらう。

夕方になると
私は足を濡らしながら
貝殻を拾つてあそぶ、
乾からびた魚や、
時にはヨーロッパの船具や
色の変つた砂粒など、
波の上には新聞紙が漂つてゐることもある。

殊によつたら日本は
磁力をもつてゐるのではないかと思ふ。
ヨーロッパの友よ、
君等の国から来た渡り鳥が
唯一の休息所である日本に降りた
そして美しい一本の脱毛を私の紀念に
やがてその脚裏には
日本の砂を密着させて出発した。
幾日目かに君達の庭に降り立つだらう。

入江の美しいのは
波の交流の激しさをかたり、
松の堅固なのは風が強いからだ、
友よ、ヨーロッパの友。
日本の不等な称讃を止めよ。
韻律の日本の実体は
海の潮騒のやうな
厳粛沈痛なものと知つてくれ。


祖先の下山

やさしい豪族は
太刀を担ぎながら山を降りて来た。
快活に、傍の道連れと語り合ひながら、
霧はふかく、雲は爛れてゐた。
其処で『日本の不思議な生活』の
深い根幹を地に植ゑた。

依然として、日本の奇怪は今でも存在し
精神の浮橋は、世界の橋に通じてゐる。
昏迷の中に驚嘆の花を咲かせよ、
幾度も私達の住居を再建しよう、
新しい土地へ下山するのだ、
新しい土地へ。
祖先のやうに明るく談笑しながら。

山の霊気は私のマントをくるみ
その光りの花粉をもつて
夜光虫のやうに飾る、
世界の思想と交媒せよ。

樵夫は高い樹の傘下にある、
轟然と伐採する
樹の枝は爛れた空を掃く
あらゆる日本の神事は
我等の手をもつて主宰せよ。


種族の花

お前の精神は肉体は
ひさしく落葉松《からまつ》の揺籃に眠り
嵐の氷片を餌として暮した、

松の細根は泥土に埋り
あたりは海のやうな苔土帯《つんどら》
湿潤の火は燃える
山猫のやうに痩せてゆく
季節の毒気に萎んでゆく種族の花、

愛奴 愛奴
今日も高巓のななかまど[#「ななかまど」に傍点]の樹に腰かけて
肺患の呼吸に鬚をふるはす。


都会の饑餓

雑踏よ、都会の雑踏よ。
私は終日美しい痙攣のために身悶へし
何処といふあてもなく、
ただ足にまかせて歩み、疲労し、
到る処の街角に休息し、
呆然として、車道、人道いりみだれた、
埃りで組み立てられた十字路に、
まるで獣らしい憎しみをもつて凝視する。

都会よ、私はお前の尻尾を捕へ
お前の尻尾と共に私は転げ廻つてゐるのか。
私の帽子の上の騒音、
ああ、
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