る。この他、「日比谷附近」や短編小説を『中央公論』に発表するなど旺盛な活動が続いたが、十月、創作の拠点の一つであった『詩人』が廃刊となる。
一九三七(昭和十二)年 七月の日華事変勃発と相前後して左翼系の文学誌が壊滅状態となり、発表の場が急速に狭まる。帝大新聞、三田新聞、都新聞などに文芸時評、文化時評を発表。この年、池袋の喫茶店でデッサンの個展を開く。
一九三八(昭和十三)年 この頃から喀血が始まり、咳と痰に悩まされるようになる。雑誌『詩と美術』に詩とともに展覧会評を書くようになり、美術批評の分野にも進出。
一九三九(昭和十四)年 雑誌『塊』に参加し、長編詩「託児所をつくれ」(五月号)、「諷刺大学生」(八月号)などを同誌に発表。この頃、湯浅芳子と共同でプーシキンの詩の翻訳を完成させているが、原稿は散逸。
一九四〇(昭和十五)年 活動の中心を雑誌『現代文学』に移し、「偶成詩集」(一月号)「逍遥詩集」(三月号)「流民詩集」(四月号)「通信詩集」(六月号)など多数の作品を発表。しかし、健康状態は急速に悪化し、一一月二〇日朝五時、東京都豊島区千早町一の三〇番地のアパート東荘の自室で死去。享年三九
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