正十五)年 一月、長男焔誕生。
一九二七(昭和二)年 旭川新聞の文芸欄の担当となり、詩、童話などを連載。
一九二八(昭和三)年 六月、旭川新聞社を退職。妻子をともなって上京し、間借り生活を始める。雑誌社や業界新聞で働き、生活の糧を得る。雑誌『民謡詩人』に作品を発表するようになる。
一九二九(昭和四)年 都内長崎町(現豊島区長崎二丁目)に転居。晩年まで続く長崎、池袋界隈の暮らしが始まる。
一九三〇(昭和五)年 プロレタリア詩人会に加わり、雑誌『プロレタリア詩』一〇月号に「スパイは幾万ありとても」を発表。
一九三二(昭和七)年 プロレタリア詩人会が日本プロレタリア作家同盟(ナップ)へと発展的解消をし、これにともなってナップに参加。
一九三三(昭和八)年 ナップ末期の詩集『戦列』に「母親は息子の手を」を発表。秋、新井徹、遠地輝武らと同人詩誌『詩精神』創刊準備を開始。
一九三四(昭和九)年 二月、『詩精神』創刊号に「馬上の詩」を発表。続いて、「ゴールド・ラッシュ」(四月号)「瑞々しい目をもって」(六月号)「しゃべり捲くれ」(九月号)「乳しぼりの歌」(一〇月号)などの作品を次々に同誌上で発表。ま
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