一九〇一(明治三十四)年 九月九日、北海道小樽市に生まれる。父は三木清次郎、母は小熊マツ。マツが未入籍のため、出生届は出されず。
一九〇四(明治三十七)年 十月、母マツが死去。戸主となる。一二月二六日、小熊マツ私生子として入籍。父清次郎は新たにナカを後妻として迎える。のち、父母とともに北海道稚内へ、さらに樺太へ移住。
一九一二(明治四十五)年 この頃、秋田県に住む伯母のもとに一〜二年間引き取られ、養育を受ける。
一九一六(大正五)年 樺太泊居(トマリオロ)の高等小学校二年を一五歳で卒業。卒業後、漁師の手伝い、養鶏場の番人、炭焼きの手伝い、呉服屋の行商人などの職業を転々とする。
一九二一(大正十)年 徴兵検査をきっかけに小熊マツの私生子であることを知り、以後、三木姓を捨てて小熊姓を名乗るようになる。
一九二二(大正十一)年 北海道旭川新聞社に見習記者として入社(翌年の説もある)。文才を認められ、社会部の記者となる。
一九二五(大正十四)年 二月、旭川市崎本富三郎三女、崎本ツネコと結婚。四月に夫人とともに上京するが、七月、旭川に戻る。上京中に雑誌『愛国婦人』に童話を発表。
一九二六(大正十五)年 一月、長男焔誕生。
一九二七(昭和二)年 旭川新聞の文芸欄の担当となり、詩、童話などを連載。
一九二八(昭和三)年 六月、旭川新聞社を退職。妻子をともなって上京し、間借り生活を始める。雑誌社や業界新聞で働き、生活の糧を得る。雑誌『民謡詩人』に作品を発表するようになる。
一九二九(昭和四)年 都内長崎町(現豊島区長崎二丁目)に転居。晩年まで続く長崎、池袋界隈の暮らしが始まる。
一九三〇(昭和五)年 プロレタリア詩人会に加わり、雑誌『プロレタリア詩』一〇月号に「スパイは幾万ありとても」を発表。
一九三二(昭和七)年 プロレタリア詩人会が日本プロレタリア作家同盟(ナップ)へと発展的解消をし、これにともなってナップに参加。
一九三三(昭和八)年 ナップ末期の詩集『戦列』に「母親は息子の手を」を発表。秋、新井徹、遠地輝武らと同人詩誌『詩精神』創刊準備を開始。
一九三四(昭和九)年 二月、『詩精神』創刊号に「馬上の詩」を発表。続いて、「ゴールド・ラッシュ」(四月号)「瑞々しい目をもって」(六月号)「しゃべり捲くれ」(九月号)「乳しぼりの歌」(一〇月号)などの作品を次々に同誌上で発表。ま
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