殴る
小熊秀雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)他人《ひと》さまの

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)窺ひ[#「窺ひ」は底本では「窮ひ」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    (一)

 俺はつくづくと考へる。世の中の奴らは、もちろん嘘で固まつてゐるといふ事実だ。
 情なくなるから、あんまり他人《ひと》さまのことはいふまい。手近なところで、俺の信じてゐる彼女の態度はどうだ、だんだん世間なみに嘘をおぼえこみ、なんにもないところから、鶏を飛び出させたりする手品師のやうな真似を始めだした。
 ――真個《ほんと》うにお可笑な方ね、お金が無くなれば、乞食のやうな惨めな気もちになつてしまふのね。
 彼女の観察は当つてゐた、しかし俺は決して不自然なことゝは思つてゐない。
 俺は社会主義運動を始めるのだとその抱負を語つても、彼女はてんで対手にしてくれない。
 ――貴方なんて、生まれつきのブルジョア思想よ、どうしてそんな荒つぽい運動が出来るものですか。
 副食物のこと、室内装飾のこと友人との交際のこと等色々のことに、贅沢三昧をいふことに彼女は腹を立てゝゐた。
 俺が無産階級の幸福のために、その第一線にたつて、彼らとゝもに、黒パンとか、またロシアのフセワロード、イワノフの『ポーラヤアラビア』の作中に現れてくる人々のやうに、煮込みの中に白樺の皮を交ぜたものや、馬の糞の中の燕麦の粒をひろつて食べたり、人間の肉や、鼠の肉などを、喰はなければならないやうな、食物的な試練に直面した場合にも、到底堪へることが出来ない男であると考へてゐるらしい。
 ――馬鹿野郎、真のプロレタリアは俺のやうに、金銭に敏感でなければならないんだ。
 彼女はだまつてしまつた。
 最近では、まつたく観念をしたものと見える、俺が金がはいると王者か騎士のやうに、街の酒場といふ酒場や、淫売屋の梯子飲みをして廻り、また財布の中に一銭の金も無くなると、乞食か墓穴掘のやうな、陰鬱な、気難かしい顔をして、ストーブの傍に立膝をしてゐる俺の姿を、彼女はひとめ見たゞけでぞつとするらしい。しかし彼女は蛇のやうにとぐろを巻いて罵つてゐる俺の仏頂面を見ることをすつかり最近では馴れつこになつてしまつた。
 或る日、彼女が我々無産階級に到底ありうべからざる陰謀を企てゝゐたのを、偶然の機会から発見した。
 彼女は、三日もつゞけさまに、朝の味噌汁にキャベツを使つて俺を苦しめたのである。
 それは何かの復讐であつたかも知れない。
 彼女は百姓の育ちであつたので青菜類をこのんだし、俺は海浜に育つたので魚類が好きであつた。
 魚であれば多少腐つてゐてもよろこんだ。
 それに彼女は、片意地な自我を毎朝三日もつゞけて、その椀の中にまざまざと青いものを漂はして俺を脅迫したのが、たいへん癪にさはつた。
 俺は激しく怒つて、男性的な一撃を彼女に喰らはした。
 膳の上には革命がひらかれた。茶椀を投げつけた。茶椀は半円を描いて室中を走り廻つた。
 女はかうした場合何時も無抵抗主義をとつた、寒い猫のやうに、自分の膝の中に頭を突込んで丸くなつた。
 その惨めなさまが、尚更俺の憤怒の火に油をそゝいだ。

    (二)

 なに事についても彼女は大袈裟であつた彼女が鼻水を垂らして泣いてゐるのだけでも、もう沢山であるのに、それに涎まで加へてせいゝつぱい色気のない顔をして賑やかに泣きだした。
 ――殴るのも習慣になるもんですよ。
 彼女は真から迷惑さうに、俺の機嫌のよい時に、顔色を窺ひ[#「窺ひ」は底本では「窮ひ」]/\かういふのであつた。
 女といふものは、何程聡明であつても、何処かに愚鈍な半面をもつてゐるものである。
 ときにはこの愚鈍が『女らしさ』やら『情緒』やらに掩ひ隠されてゐる場合が多いが、それは彼女達が着飾つて路を歩いてゐるときの場合だけであつて、彼女達が家庭にはいると、愚鈍のまゝに、いたるところで醜く暴露されるのである。
 その時『ぽかり』と俺は一撃を彼女の頭上に――飛ばすのであるすると女はこの問題を直ぐに氷解してしまふ。
 噛んで含めるやうに、色々の方面から、解いてきかしても、どうしても理解しない場合、これは彼女達ばかりとはいへまい、男達の場合にも
『不意に襲ふもの』があれば、いつぺんに何もかも判つてしまふものらしい。
 ――不意に襲ふもの。
 俺自身も、その問題も判然としないものに悩み苦しんでゐる。
 しかし俺はすつかり安心をしてゐるのだ、俺の顔が、実に美しく蒼ざめた時、背後から『不意に襲ふもの』のある瞬間に、俺はすべてを解くことができるであらうと信じてゐるからである。

 俺は神様に感謝するといふことが、生れつき大嫌ひな人間だが、たつたひとつだけ、時折祈祷をしてやつて罰が当るまいと思はれることがある。
 それは彼女が健康だといふことであつた。
 皮膚は馬の皮のやうに、丈夫に出来てゐて、殴つても、蹴つても決して傷がつくといふことがなかつた。ところがこの詐欺師奴が、この健康をさへ、誤魔化さうとしたことがあつた。
 俺は真個《ほんと》うは健康な女が嫌ひであつた。そのひとつの理由として健康な女に限つて色が黒いといふことも挙げることができる。
 市街の一隅には、大日本赤十字病院といふ、海のやうに青い層をなした巨大な建物があつた。
 夏になるとこの病院の中庭には青や黄や赤の松葉牡丹がそれは美しく咲いた。
 そこにこそ俺の恋人にふさはしい、手の痩た女や、眼の大きい女達が数十人生活をしてゐた、硝子張の露台の中を恋人達は、水族館の魚のやうにひら/\静かに泳いでゐた。ばく/″\唇《くち》を動かした。
 彼女達は、鶏卵《たまご》の黄味を吸はうとするかのやうに、太陽を吸はうと与へられた日課をしてゐた。
 世間の人達は、彼女達を肺病患みと呼んで恐れてゐた。
 健康な人々の中に許り閉ぢこもつてゐるといふことは危険なことだ、彼等はその健康をもつて、ぐん/″\不合理をも、押倒し、引倒し、藪原の材木を曳く壮健な馬のやうに、人生を突き進む、これに反して、可憐で繊細な病人達は、絶えず人生の姿に脅へた。
 高い壁にゆきあたると彼等はじつとその前に坐つてゐて、何時までも待つてゐた。
 扉のしぜんに開かれるまで、退屈な人々は何事かを考へてゐなければならなかつた。

    (三)

 俺の馬のやうな彼女も、俺の処に転がり込んで来た当時は、細い首をして、青く透いてみえる顔をしてゐた。
 ――体の何処かに、疾患を持つてゐる方は、豚や牛のやうに、健康な人たちとはちがつた鋭敏な感覚と、叡智とをもつてゐるものですね。
『俺は今考へると腹が立つ程当時彼女に丁寧にものをいつてゐたのであつた』
 すると女はごほん/″\と咳をした。そして胸の辺をおさへ情趣に富んだ表情をした。
 ところが彼女の病気は、美しくなるどころか、日増しに悪化し、次第に顔が狐のやうに尖り、皮膚の色沢もなくなり額のところの毛が脱けてきた。
 或る日、飛んでもないことをいひ出した。
 ――貴方。妾《わたし》お寿司にサイダアをかけて喰べて見たいの。
 それ以来彼女の舌は天才的になり、味覚は敏感となつた。
 俺はフランスの美食家、プリヤサブアランのことをおもひだした。それは彼女もフランスの美食家に負《ひ》けをとらない、珍奇な喰べ物を探しだしたからであつた。
『鶉の油で、はうれん草を揚げたもの』や『極く新鮮なカキのあとに喰べるものは、串で焼いた腎臓と、トリュッフを附けたフォア、グラと、それからチーズとバタとを溶いた香料と桜酒で味をつけた』などゝ注文をいひだし兼ねなかつたが、幸彼女は飢ゑたやうにがつがつと歯を鳴らして、夏蜜柑に砂糖をかけたのを、一日に七ツも八ツも貪り喰ひ無性にうれしがつてゐた。
 俺は幸にも手籠を提てパリーの公設市場まで、買ひだしに行かなくてもよくて済んだのであつた。
 それから間もなく欺されてゐることを知つた。
 肺病などゝいふ上品な、はいからな病気でもなんでもなかつた。彼女は妊娠をしてゐたのであつた。
 精一杯な我儘を始めた。
 殴りつけようとすると、女は素早く拳骨の下に、腹を突きだした、かうすると俺が殴れないことを、ちやんと知つてゐた。
 当時俺たちは極度の貧乏をしてゐたのだが、彼女は不経済にも喰べた物を片つ端しから盛んに吐きだした、そして吐き気が二ヶ月もつゞいたのであつた。
 ――殴るなら殴つてご覧、吐くものがなんにも無いんだから、血を吐いて見せますから。
 事実血を吐かうとおもへば、吐けるらしかつた。
 女の感情は、毎日猫の瞳のやうに変つた。
 女などゝいふものは理由なしによく泣くものではあるが、この数ヶ月間は殊に理由なしに泣つゞけた。
 この妊娠の期間、俺は彼女に馬車馬のやうに虐使された。
 胎児と彼女の臍とは、長い管のやうなものでつながつてゐて、高いところに、彼女が手を挙げるやうなことがあると、ばちんと音がして、臍の緒が切断され、腹の中の赤ん坊は死んでしまふと、彼女は脅かしたのであつた。
 俺は仕かたなく棚から摺鉢や片口などの重いものを、をろしてやつたり、漬物石をとつてやつたりしなければならなかつた。
 重い物は男たちが持つてやらなければならないなどといふ家憲のある家庭もあるさうだが、俺はそんなことはきらひだ、殊に幸なことには彼女は俺より大力であつたから。
 しかし妊娠してから女は急に力が抜けてしまつたのだ。

    (四)

 腹の中の子供に、聖書を読んできかしたり、ベートーベンの交響楽を弾いてやつたりする、馬鹿気た教育法がある。
 これを胎教とかいふさうだ。
 神様の存在をも信じられないやうな俺が、どうしてこんな電信柱に説教をする様な愚にもつかない実験を信じることができ様か。
 それまではてんで鼻汁《はな》もひつかけなかつた、この教育法を、その頃から妙に真理の様にも考へさせられだした。
 ――ずいぶん、お飯《まんま》を喰ふぢやないか、
 彼女は楽隊にはやし立てられてゐるかの様に、調子に乗つて何杯も何杯も、お替りをして喰べた。
 ――でも赤ん坊と二人分喰べるんですもの。
 と嬉しさうに答へた。
 成程、彼女と胎児とは、同じ血脈に結びつけられ、同じ呼吸に生きてゐるものに相違ない、彼女が怒れば腹の子も怒り、悲しめば胎児もともに、悲しむものであるらしい。
 そこで俺は彼女を、興奮させる様なことのない様に心掛た。台所の雑巾がけをしたり、水汲みをしたり惨めな下僕となつた。
 決して彼女の機嫌を伺つたり、血を吐くと脅喝されたので、それを怖れたからではない、やがて出産するであらう『我等の仲間』のために敬意を表したのである。
 或る日、まつ青な顔になつて彼女は室中を歩き
 ――亀の子たはし、の様な刺の生へた球が、お腹の中を駈廻る、きつと子宮外妊娠に違ひないと思ふわ。
 と泣わめいた。
 しかしこれは嘘の皮であつた。何ごとかの前兆であつたのだ。
 その後数十日経ち彼女は『我等の仲間』を、ろく/\陣痛もせず馬よりも容易に分娩したのであつた。
 いまでは全く健康体となつた、皮膚は頑丈で、反撥力に富み何程殴つても傷つくことがない、赤児もすく/\と生長した。
 健康が恢復するとともに彼女は日増に嘘をいひだした。
 しかも彼女は、プロレタリア精神の欠けた、もつとも恥づべき大それた陰謀を企てゝゐた。
『料理と色彩』『料理と立体感』『料理と感覚』等の料理の絵画的方面を主題とした争ひ、のあつた日の出来ごとであつた。
 またキャベツの味噌汁を三日続けて喰はしたことに端を発し、二人は獣のやうに罵り合つた。
 俺は不意に彼女を襲つた。
 彼女は泣《なき》そしてすべてを理解した。
 ――食物の調理などを、そんなに単純に考へてゐるのか、我々の生活に重大なものを、よく考へて御覧、同じ大根でもこんな無態な切様があるか、豚だつてもつと食物に敏感さはあるよ。
 ――貴
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