様はふたこと目には、金を掛ればといふが、金をかけて美味いものをつくりあげるのは誰でも出来るんだ。栄養価値の問題ぢやない、美の問題だ。
彼女は実際口に入れることが出来るものは、何でも嚥み下すことが出来るもの位に単純に考へてゐるらしかつた、だまつてゐれば革帯でも切つてお汁の実に入れ兼ねない女であつた。
そこで俺は味覚心理学を、約三十分間程も長講し、飯を炊くことの下手な女は愚鈍な女であるといふ結論で小言を結んだ。
(五)
彼女は恭しくひれ伏して謹聴した。俺はその場の不快な、焦々とした空気を一刻も早く脱れようとしたのであつた。
――泣面を見てゐられるか、カフェに行くんだ金をだせ。
二人の生活には十日も以前から一銭の小遣ひ金もなくなつてゐた。で俺はその無理難題であることをちやんと知つてゐた。
――そんなことを仰言つても、四五日もお風呂に行かれないことを貴方も知つてゐる癖に。
――風呂位、一年行かなくても死ぬものか、文句をいふな、ぐづぐづして見ろ。
勝ち誇つてゐたので、畳かけて惨忍な言葉を、頭上から浴びせかけ、またもや拳骨を喰らはしたのである。
ところが俺が予期してゐないのに、すつくと立ちあがり、彼女は勝手元から踏み台を持ちだし、その踏み台を、石版刷りの西洋名画の額のある高い壁の下に据た。
彼女は泣ながら、そしてごそごそいはしながら、額の後の手探りを始めた。
――なにを探してゐるんだ、汚いぢやないか。
ぱつと埃が舞ひ上つた、彼女は隠してをいた品物を発見した。
堅く丸いもので、白木綿で包まれたものだ、中からは新聞紙包みが出て来た。
なんといふ念入りなことであらう、その新聞の中には、青い活動写真の広告紙があり、その紙の中から最後に、塵紙で包んだ五十銭銀貨が一枚飛びだした。
――貯金するなんて、汚い根性をだしたら承知しないぞ。
俺は一喝して、五十銭玉を彼女の手からひつたくると、ぱつと戸外に出た。
街には夕暮の沈んだ空気が漂つてゐた。俺は洋食店に飛び込んで大コップ五杯のビールを飲み充分に酔ふことができた。
――たとい五十銭銀貨一枚にしろ我々階級にとつて、貯蓄するとは大きな、陰謀でなくてなんであらう。
――私有財産を認めず。
――彼女は詐欺師、しかし偉いぞ俺は全く泥酔したり悪罵したりまた無性にうれしがつたりした。
その後ある日、
電燈の笠を拭いてをかなかつたことから俺は再び暴力をふるつた。
――泣面を見てゐられるか、カフェに行くんだ金、をだせ。
すると彼女は、めそめそ泣ながら、押入れの上の段に泥棒犬のやうによつ這ひになつて入り込んだ。
押入の天井板は、移転して来た当時、電燈の取り付けにきた電燈屋が、天井板をはづしつ放しにして帰つたが、この暗い所に手を突込んでゐたが、そこから小さな五十銭銀貨一枚を包んだ紙包を取りだした。
まるでお伽話しではないか。
その隠し場所の思ひつきのすぐれてゐることには、俺も彼女に敬意を表した。
粉おしろいの粉の中に隠されてあつたり、無造作に紙に包んで糸巻き代用にしてゐたりしたので、彼女の留守に家中を探したことがあつたが容易に発見されなかつた。
以前にも増て殴ることに興味を覚えだした。
――しかし自重しなければならないぞ、一撃が五十銭を生むのだ。
俺は殴ることを自重した、しかし彼女の貯へは長くつゞかなかつた。其後彼女は泣くばかりで遂に立ちあがらなかつた。
底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
1990(平成2)年11月15日新版第1刷発行
底本の親本:「旭川新聞」旭川新聞社
1927(昭和2)年1月12日〜16日
初出:「旭川新聞」旭川新聞社
1927(昭和2)年1月12日〜16日
入力:八巻美恵
校正:浜野 智
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
2006年3月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング