」に傍点]という方であって、むしろ科学的よりは芸術的であった[#「むしろ科学的よりは芸術的であった」に傍点]。しかしテニズンとか、ブラウニング等とは交際もしなかったので、この点では同じ科学者でも、ダーウィンやハックスレー等とは、大いに趣きを異にしていた。
五三 晩年
一八五八年にはアルバート親王の提議で、ヴィクトリア女王はロンドン郊外ハンプトンコートの離宮の近くで緑の野原の見える小さな一邸をファラデーに賜わった。ファラデーは初めには御受けを躊躇した。これは家の修理等に金がかかりはせぬかと気づいたためであった。これを聴かれて、女王は家の内外を全部修理された。そこでファラデーは移転した。しかし、王立協会の室はまだそのまま占領しておって、時々やって来た。
クリスマスの講演も一八六〇年のが最終となり[#「最終となり」に傍点]、ファラデーの健康は段々と衰えて、翌年十月には王立協会の教授もやめて[#「教授もやめて」に傍点]、単に管理人[#「管理人」に傍点]となった。時に七十歳である。このとき、ファラデーが王立協会の幹事に送った手紙には、
「一八一三年に協会に入ってから今や四十九年
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