たらよい。」
また、提出者の話にも、ファラデーを推薦するのはよくないという事をデビーが一時間も説いた。こんな風で、その頃のデビーとファラデーとの間はとかく円満を欠いておった。しかしその後になって、段々とデビーの感情もなおり、また一方で、ウォーラストンの誤解も分明になって、結局ただ一つの反対票[#「ただ一つの反対票」に傍点]があったのみで、翌一八二四年の一月八日に名誉ある会員に当選[#「当選」に傍点]した。
デビーの妬み深いのは、健康を損してから一層ひどくなった。この後といえどもファラデーのデビーを尊敬することは依然旧のごとくであったが、デビーの方ではもと[#「もと」に傍点]のようにやさしく無かった。やがてデビーは病気保養のため、イタリアに転地などをしておったが、五年の後|逝《な》くなった。
二八 講演
一八二三年にブランド教授が講演を突然休んだことがあって、ファラデーが代理[#「代理」に傍点]をして好評を博した。これが王立協会での、ファラデーの初めての講演である。一八二五年二月には、王立協会の実験場長[#「実験場長」に傍点]になった。ブランドはやはり化学の教授であっ
前へ
次へ
全194ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
愛知 敬一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング