ローヤル・ソサイテーの最高の賞牌のコプレー賞も二度までもらった。
これらの名誉をファラデーは非常に重んじたもので、特別に箱を[#「特別に箱を」に傍点]つくりて、その内に入れて索引まで[#「索引まで」に傍点]も附けて置いた。
五一 宗教
ファラデーの信じておったサンデマン宗の事については前にも述べたが、一八四〇年から四四年までの間、ファラデーはこの教会の長老であった。それが四四年に長老たることも会員たることもやめられた[#「やめられた」に傍点]が、その委細は、ある日曜日にファラデーが欠席をした。どうしたかと聞かれたら、ヴィクトリア女王に正餐に招かれたと答えて、正当の理由であるごとくに弁解した。これが不都合だというので、やめられたのである。しかしこの後も引きつづき熱心に礼拝には来ていた。そのため、後にはまた[#「また」に傍点]会員になり、一八六〇年からふたたび[#「ふたたび」に傍点]長老となった。説教したことも度々ある。ファラデーの説教だというので、わざわざ聴きに行った人もある。
しかしファラデー位、講演の上手にやれる人はあるまいが[#「あるまいが」に傍点]、ファラデーよりもっと効目《ききめ》があるように説教の出来る者は無数[#「無数」に傍点]にあるという評で、講演の時の熱心な活《い》きいきとした態度は全々無く、ただ信心深い真面目《まじめ》という一点張りで、説くことも新旧約聖書のあちらこちらから引きぬいたもの[#「引きぬいたもの」に傍点]で、よく聖書をあんなに覚えていたものだと、感心した人もある[#「感心した人もある」に傍点]。
ファラデーは神がこの世界を支配することに関して、系統的に考えたことは無いらしい。ニュートンやカントはそれを考えたのであるが。ファラデーのやり方は、科学と宗教との間に判然と境界を立てて別物にして[#「別物にして」に傍点]しまい、科学において用うる批評や論難は、宗教に向って一切用いないという流儀であったらしい。ファラデーの信じた宗教では、聖書のみが神の教というので、それに何にも附加せず、またそれより何にも減じないというのであった。ファラデーは新旧約聖書の出版の時代とか、訳者とかについて、一つも誤りなしと信じ[#「一つも誤りなしと信じ」に傍点][#「、一つも誤りなしと信じ[#「一つも誤りなしと信じ」に傍点]」は底本では「、一つも
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