た。
 ファラデーが実験場長になってから、協会の会員を招いて実験を見せたり講演を聞かせたりすることを始めた。また講演も自分がやるだけでなく、外からも有名な人を頼んで来た。後になっては、金曜日の夜[#「金曜日の夜」に傍点]に開くことになり(毎金曜日ではない)、今日まで引き続きやっている。「金曜夕の講演」というて、科学を通俗化するに非常な効があった。
 この講演を何日に誰がして、何という題で、何を見せたか、ファラデーは細かく書きつけて置いた。これも今日残っている。
 また木曜日の午後[#「木曜日の午後」に傍点]には、王立協会の委員会[#「委員会」に傍点]があるが、この記事もファラデーが書いて置いた。
 一八二七年のクリスマス[#「クリスマス」に傍点]には、子供に理化学の智識をつけようというので、六回ほど講演をした。これも非常な成功で、その後十九年ばかり引きつづいて行った。この手扣《てびかえ》も今日まで保存されてある。これが有名な「クリスマスの講演」というのである。
 この年、化学教授[#「化学教授」に傍点]のブランドが辞職し、ファラデーが後任になった。一八二九年には、欧洲の旅行先きでデビーが死んだ。
 これよりさき、一八二七年に、ロンドン大学(ただ今のユニバーシティ・カレッジというているもの)から化学教授にと呼ばれたが、断った[#「断った」に傍点]。
 一八二九年には、ロンドン郊外のウールウイッチにある王立の海軍学校に講師[#「講師」に傍点]となり、一年に二十回講義を引き受けた。たいてい、講義のある前日に行って準備をし、それから近辺を散歩し、翌朝、講義をしまいてから、散歩ながら帰って来た。講師としては非常に評判がよかった。一八五二年まで続けておったが、学制が変ったので、辞職して、アーベルを後任に入れた。

     二九 協会の財政

 この頃ファラデーの発表した研究は既に述べた通りである。しかし、王立協会の財政[#「財政」に傍点]は引きつづいて悪いので、ファラデーも実験費を出来るだけ節約し、半ペンスの金も無駄にしないように気をつけていた。
 それでも一八三一年には、電磁気感応の大発見[#「電磁気感応の大発見」に傍点]をした。この翌年の末の頃には王立協会の財政はいよいよ悪くなった。その時委員会の出した報告に、「ファラデーの年俸一百ポンド、それに室と石炭とロウソク(灯用)
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