に傍点]のときには既に才名一世に鳴りひびいて[#「才名一世に鳴りひびいて」に傍点]、ナイトに叙せられた。その後、間もなくアプリースという才色兼備の金持の寡婦と結婚した[#「寡婦と結婚した」に傍点]。そこで王立協会の教授をやめて、代りにブランドを入れ、自分は単に名誉教授となって、夫人およびファラデーをつれて、大陸に旅行し、帰ってからは、安全灯の発明があり、一八三〇年より七個年の間、ローヤル・ソサイテーの会長になった。しかし、健康が良くないので、再び大陸に旅行したが夫人は同行を承知しなかった。イタリアのローマで一度危篤に陥ったが、ゼネバまで帰ったとき、前に同僚であったヤングの死去の報を聞いたが、その夜自分も中風で死んだ。一八二九年五月二十九日である。享年五十一。
 詩人カレッヂが評していうのに、「デビーは一流の化学者にならなくとも、一流の詩人に[#「一流の詩人に」に傍点]なったであろう」と。旅行中に詩も作ったし、「旅中の慰め」という散文もある。
           ――――――――――――
 トーマス・ヤングは一七七三年七月十三日生れで、十四、五歳のときには、既にオランダ、ギリシャ、フランス、イタリア、ヘブライ、ペルシア、アラビア語を読んだ。ドイツのゲッチンゲンや、英国のキャンブリッジで医学を修めた。一八〇〇年には光の波動説[#「光の波動説」に傍点]を発表し、翌一八〇一年からルムフォード伯に招かれて王立協会に来たが、二年もしないでやめた。理由は、医学の方面の勉強が遅れるからというので、一八〇三年医学博士 M.B. になり、後またセント・ジョージ病院の医師となった。王立協会におった時期は短かかったが、その間にやった講義録や発表した論文は、いずれも有名[#「有名」に傍点]なものである。また後には、エジプトの象形文字[#「エジプトの象形文字」に傍点]の研究が有名である。天才というべき人で[#「天才というべき人で」に傍点]、一八二九年五月十日に死んだ。
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後編 研究
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      研究の三期

 ファラデーの研究は始終を通じて、実に四十四年の永き[#「四十四年の永き」に傍点]にわたる。すなわち一八一六年の生石灰の研究を振り出しに、同六〇年より六二年の頃に研究して結果の未定に終った磁気と
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