になった。また同年八月三日、物理学の教授、王立協会記事編纂係兼実験場の管理人として、トーマス[#「トーマス」に傍点]・ヤング[#「ヤング」に傍点]を入れた。年俸は三百ギニー。ヤングは講演が上手でなく、二、三年ほどいて辞職したが、光の波動説の大家として、今日までも有名な人である。デビーの方は講演も非常に上手であり、これがため王立協会が有名になり、盛んにもなった。
王立協会もかくして大体出来たので、ルムフォード伯は一八〇三年にパリ[#「パリ」に傍点]に行った。フランスで有名な化学者にラボアジェーという人があったが、革命のときに(一七九四 五月八日)断頭台で殺された。その未亡人は三百万フランも財産[#「未亡人は三百万フランも財産」に傍点]があり、交際場裡の花[#「交際場裡の花」に傍点]であったが、この頃は四十六、七歳で、ルムフォード伯より四つ位若かった。この婦人と心易くなり、ババリアの選挙公の仲介を以て、一八〇五年十月二十四日に結婚した。しかし、二人は折り合いが悪く、四年後にわかれた[#「わかれた」に傍点]。この後、ルムフォード伯は自宅に引っ込み勝ちで、ことにラグランヂュの歿後《ぼつご》は、二、三の友人(ことにキュービエー)と交わっただけで、一八一四年八月二十一日にパリで死んだ。
ルムフォード伯の功業は、ヴィーデンという大将とデビーとを見出した事であると謂われるが、ヤングもまたルムフォードに見出された一人である。
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サー・ハンフリー・デビーは一七七八年十二月十七日生れで、父は早く死んだが、非常に早熟で[#「非常に早熟で」に傍点]、文学にも科学にも秀いで[#「文学にも科学にも秀いで」に傍点]、十七歳の時には、氷の二片を合わせてこすると溶けるのを見て、「熱は物体にあらず」という説を発表した。その後、ある病院の管理をして、「笑気」のことを研究した。ルムフォード伯に招かれて、ロンドンに来たのは一八〇一年、二十三歳の時で、まだ山出しの蛮からであったが、根が才気のはじけた人間であるから、講演振りも直ちに上手になり、その講演には上流の人達が争うて聴きに来るようになり一千人にも上ることがあった。そんな訳で、当時の人々から大層崇拝されるようになった。電池の研究をしたり、電気分解によりポタシウムやソヂウムを発見した。三十四歳[#「三十四歳」
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