妖怪研究
伊東忠太

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)妖怪《えうくわい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|口《くち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)口《くち》[#ルビの「くち」は底本では「くに」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたやうな形の繰り返し記号)
(例)吾々《われ/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       一 ばけものの起源
 妖怪《えうくわい》の研究《けんきう》と云《い》つても、別《べつ》に專門《せんもん》に調《しら》べた譯《わけ》でもなく、又《また》さういふ專門《せんもん》があるや否《いな》やをも知《し》らぬ。兎《と》に角《かく》私《わたし》はばけものといふものは非常《ひぜう》に面白《おもしろ》いものだと思《おも》つて居《ゐ》るので、之《これ》に關《くわん》するほんの漠然《ばくぜん》たる感想《かんさう》を、聊《いさゝ》か茲《こゝ》に述《の》ぶるに過《す》ぎない。
 私《わたし》のばけものに關《くわん》する考《かんが》へは、世間《せけん》の所謂《いはゆる》化物《ばけもの》とは餘程《よほど》範圍《はんゐ》を異《こと》にしてゐる。先《ま》づばけものとはどういふものであるかといふに、元來《ぐわんらい》宗教的信念《しうけうてきしんねん》又《また》は迷信《めいしん》から作《つく》り出《だ》されたものであつて、理想的《りさうてき》又《また》は空想的《くうさうてき》に或《あ》る形象《けいしやう》を假想《かさう》し、之《これ》を極端《きよくたん》に誇張《こてう》する結果《けつくわ》勢《いきほ》ひ異形《いげう》の相《さう》を呈《てい》するので、之《これ》が私《わたし》のばけものゝ定義《ていぎ》である。即《すなは》ち私《わたし》の言《い》ふばけものは、餘程《よほど》範圍《はんゐ》の廣《ひろ》い解釋《かいしやく》であつて、世間《せけん》の所謂《いはゆる》化物《ばけもの》は一の分科《ぶんくわ》に過《す》ぎない事《こと》となるのである。世間《せけん》で一|口《くち》[#ルビの「くち」は底本では「くに」]に化物《ばけもの》といふと、何《なに》か妖怪變化《えうくわいへんげ》の魔物《まもの》などを意味《いみ》するやうで極《きは》めて淺薄《せんぱく》らしく思《おも》はれるが、私《わたし》の考《かんが》へて居《ゐ》るばけものは、餘程《よほど》深《ふか》い意味《いみ》の有《あ》るものである。特《とく》に藝術的《げいじゆつてき》に觀察《くわんさつ》する時《とき》は非常《ひぜう》に面白《おもしろ》い。
 ばけものゝ一|面《めん》は極《きは》めて雄大《ゆうだい》で全宇宙《ぜんうちう》を抱括《はうくわつ》する、而《しか》も他《た》の一|面《めん》は極《きは》めて微妙《びめう》で、殆《ほとん》ど微《び》に入《い》り細《さい》に渉《わた》る。即《すなは》ち最《もつと》も高遠《かうゑん》なるは神話《しんわ》となり、最《もつと》も卑近《ひきん》なるはお伽噺《とぎばなし》となり、一|般《ぱん》の學術《がくじゆつ》特《とく》に歴史上《れきしじやう》に於《おい》ても、又《また》一|般《ぱん》生活上《せいくわつじやう》に於《おい》ても、實《じつ》に微妙《びめう》なる關係《くわんけい》を有《いう》して居《ゐ》るのである。若《も》し歴史上《れきしじやう》又《また》は社會生活《しやくわいせいくわつ》の上《うへ》からばけものといふものを取去《とりさ》つたならば、極《きは》めて乾燥無味《かんさうむみ》[#「乾燥無味《かんそうむみ》」は底本では「乾燦無味《かんさうむみ》」]のものとなるであらう。隨《したが》つて吾々《われ/\》が知《し》らず識《し》らずばけものから與《あた》へられる趣味《しゆみ》の如何《いか》に豊富《ほうふ》なるかは、想像《さうざう》に餘《あま》りある事《こと》であつて、確《たしか》[#ルビの「たしか」は底本では「たかし」]にばけものは社會生活《しやくわいせいくわつ》の上《うへ》に、最《もつと》も缺《か》くべからざる要素《えうそ》の一つである。
 世界《せかい》の歴史《れきし》風俗《ふうぞく》を調《しら》べて見《み》るに、何國《なにこく》、何時代《なにじだい》に於《おい》ても、化物思想《ばけものしさう》の無《な》い處《ところ》は決《けつ》して無《な》いのである。然《しか》らば化物《ばけもの》の考《かんが》へはどうして出《で》て來《き》たか、之《これ》を研究《けんきう》するのは心理學《しんりがく》の領分《れうぶん》であつて、吾々《われ/\》は門外漢《もんぐわいかん》であるが、私《わたし》の考《かんが》へでは「自然界《しぜんかい》に對《たい》する人間《にんげん》の觀察《くわんさつ》」これが此《この》根本《こんぽん》であると思《おも》ふ。
 自然界《しぜんかい》の現象《げんしやう》を見《み》ると、或《あ》[#ルビの「あ」は底本では「ある」]るものは非常《ひぜう》に美《うつく》しく、或《あ》るものは非常《ひぜう》に恐《おそ》ろしい。或《あるひ》は神祕的《しんぴてき》なものがあり、或《あるひ》は怪異《くわいい》なものがある。之《これ》には何《なに》か其《その》奧《おく》に偉大《ゐだい》な力《ちから》が潜《ひそ》んで居《ゐ》るに相違《さうゐ》ない。此《この》偉大《ゐだい》な現象《げんしやう》を起《おこ》させるものは人間以上《にんげんいじやう》の者《もの》で人間以上《にんげんいじやう》の形《かたち》をしたものだらう。此《この》想像《さうざう》が宗教《しうけう》の基《もと》となり、化物《ばけもの》を創造《さうざう》するのである。且《かつ》又《また》人間《にんげん》には由來《ゆらい》好奇心《かうきしん》が有《あ》る。此《この》好奇心《かうきしん》に刺戟《しげき》せられて、空想《くうさう》に空想《くうさう》を重《かさ》ね、遂《つひ》に珍無類《ちんむるゐ》の形《かたち》を創造《さうざう》する。故《ゆゑ》に化物《ばけもの》は各時代《かくじだい》、各民族《かくみんぞく》に必《かなら》ず無《な》くてならない事《こと》になる。隨《したが》つて世界《せかい》の各國《かくこく》は其《その》民族《みんぞく》の差異《さい》に應《おう》じて化物《ばけもの》が異《ことな》つて居《ゐ》る。
       二 各國のばけもの
 ばけものが國《くに》によりそれ/″\異《こと》なるのは、各國《かくこく》民族《みんぞく》の先天性《せんてんせい》にもよるが、又《また》土地《とち》の地理的關係《ちりてきくわんけい》によること非常《ひぜう》に大《だい》である。例《たと》へば日本《にほん》は小島國《せうたうごく》であつて、氣候《きこう》温和《をんわ》、山水《さんすゐ》も概《がい》して平凡《へいぼん》で別段《べつだん》高嶽峻嶺《かうがくしゆんれい》深山幽澤《しんざんゆうたく》といふものもない。凡《すべ》てのものが小規模《せうきも》である。その我邦《わがくに》に雄大《ゆうだい》な化物《ばけもの》のあらう筈《はず》はない。
 古來《こらい》我邦《わがくに》の化物思想《ばけものしさう》は甚《はなは》だ幼稚《えうち》で、或《あるひ》は殆《ほとん》ど無《な》かつたと言《い》つて可《い》い位《くらゐ》だ。日本《にほん》の神話《しんわ》は化物《ばけもの》の傳説《でんせつ》が甚《はなは》だ少《すくな》い。日本《にほん》の神々《かみ/\》は日本《にほん》の祖先《そせん》なる人間《にんげん》であると考《かんが》へられて、化物《ばけもの》などとは思《おも》はれて居《ゐ》ない。それで神々《かみ/\》の内《うち》で別段《べつだん》異樣《いやう》な相《さう》をしたものはない。猿田彦命《さるたひこのみこと》が鼻《はな》が高《たか》いとか、天鈿目命《あまのうづめのみこと》が顏《かほ》がをかしかつたといふ位《くらゐ》のものである。又《また》化物思想《ばけものしさう》を具體的《ぐたいてき》に現《あら》はした繪《ゑ》も餘《あま》り多《おほ》くはない。記録《きろく》に現《あら》はれたものも殆《ほとん》ど無《な》く、弘仁年間《こうにんねんかん》に藥師寺《やくしじ》の僧《そう》景戒《けいかい》が著《あらは》した「日本靈異記《にほんれいいき》」が最《もつと》も古《ふる》いものであらう。今昔物語《こんじやくものがたり》にも往々《わう/\》化物談《ばけものだん》が出《で》て居《ゐ》る。
 日本《にほん》の化物《ばけもの》は後世《こうせい》になる程《ほど》面白《おもしろ》くなつて居《ゐ》るが、是《これ》は初《はじ》め日本《にほん》の地理的關係《ちりてきくわんけい》で化物《ばけもの》を想像《さうざう》する餘地《よち》がなかつた爲《ため》である。其後《そのご》支那《しな》から、道教《だうけう》の妖怪思想《えうくわいしさう》が入《い》り、佛教《ぶつけう》と共《とも》に印度思想《いんどしさう》も入《はい》つて來《き》て、日本《にほん》の化物《ばけもの》は此爲《このため》に餘程《よほど》豊富《ほうふ》になつたのである。例《たと》へば、印度《いんど》の三|眼《め》の明王《めうわう》は變《へん》じて通俗《つうぞく》の三|眼《め》入道《にふだう》となり、鳥嘴《てうし》の迦樓羅王《かろらわう》は變《へん》じてお伽噺《とぎばなし》の烏天狗《からすてんぐ》となつた。又《また》日本《にほん》の小説《せうせつ》によく現《あら》はれる魔法遣《まはふづか》ひが、不思議《ふしぎ》な藝《げい》を演《えん》ずるのは多《おほ》くは、一|半《はん》は佛教《ぶつけう》から一|半《はん》は道教《だうけう》の仙術《せんじゆつ》から出《で》たものと思《おも》はれる。
 日本《にほん》が化物《ばけもの》の貧弱《ひんじやく》なのに對《たい》して、支那《しな》に入《い》ると全《まつた》く異《ことな》る、支那《しな》はあの通《とほ》り尨大《ぼうだい》な國《くに》であつて、西《にし》には崑崙雪山《こんろんせつざん》の諸峰《しよぼう》が際涯《はてし》なく連《つらな》り、あの深《ふか》い山岳《さんがく》の奧《おく》には屹度《きつと》何《なに》か怖《おそろ》しいものが潛《ひそ》んでゐるに相違《さうゐ》ないと考《かんが》へた。北《きた》にはゴビの大沙漠《だいさばく》があつて、これにも何《なに》か怪物《くわいぶつ》が居《ゐ》るだらうと考《かんが》へた。彼等《かれら》はゴビの沙漠《さばく》から來《く》る風《かぜ》は惡魔《あくま》の吐息《といき》だと考《かんが》へたのであらう。斯《か》くて支那《しな》には昔《むかし》から化物思想《ばけものしさう》が非常《ひぜう》に發達《はつたつ》し中《なか》には極《きは》めて雄大《ゆうだい》なものがある。尤《もつと》も儒教《じゆけう》の方《はう》では孔子《こうし》も怪力亂神《くわいりきらんしん》を語《かた》らず、鬼神妖怪《きじんえうくわい》を説《と》かないが道教《だうけう》の方《はう》では盛《さかん》に之《これ》を唱道《しやうだう》するのである。
[#彫刻に表された化物の写真(fig46337_01.png)入る]
 形《かたち》に現《あら》はされたもので、最《もつと》も古《ふる》いと思《おも》はれるものは山東省《さんとうしやう》の武氏祠《ぶしし》の浮彫《うきぼり》や毛彫《けぼり》のやうな繪《ゑ》で、是《これ》は後漢時代《ごかんじだい》のものであるが、其《その》化物《ばけもの》は何《いづ》れも奇々怪々《きゝくわい/\》を極《きは》めたものである。山海經《さんかいけう》を見《み》ても極《きは》めて荒唐無稽《くわうたうむけい》なものが多《おほ》い。小説《せうせつ》では西遊記《さいいうき》などにも、到《いた》る處《ところ》痛烈《つうれつ》なる化物思想《ばけものしさう》が横溢《わうえつ》して居《ゐ》る。歴史《れきし》で見《み》ても最初《さいしよ》から出《で》て來《く》る伏羲氏《ふくぎし》が蛇身《
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