じやしん》人首《じんしゆ》であつて、神農氏《しんのうし》が人身《じんしん》牛首《ぎうしゆ》である。恁《こ》ういふ風《ふう》に支那人《しなじん》は太古《たいこ》から化物《ばけもの》を想像《さうざう》する力《ちから》が非常《ひぜう》に強《つよ》かつた。是皆《これみな》國土《こくど》の關係《くわんけい》による事《こと》と思《おも》はれる。
 更《さら》に印度《いんど》に行《ゆ》くと、印度《いんど》は殆《ほとん》ど化物《ばけもの》の本場《ほんば》である。印度《いんど》の地形《ちけい》も支那《しな》と同《おな》じく極《きは》めて廣漠《かうばく》たるもので、其《その》千|里《り》の藪《やぶ》があるといふ如《ごと》き、必《かなら》ずしも無稽《むけい》の言《げん》ではない。天地開闢以來《てんちかいびやくいらい》未《いま》だ斧鉞《ふいつ》の入《い》らざる大森林《だいしんりん》、到《いた》る處《ところ》に蓊鬱《おううつ》として居《ゐ》る。印度河《いんどかは》、恒河《こうか》の濁流《だくりう》は澎洋《ほうやう》として果《はて》も知《し》らず、此《この》偉大《ゐだい》なる大自然《たいしぜん》の内《うち》には、何《なに》か非常《ひぜう》に恐《おそ》るべきものが潛《ひそ》んで居《ゐ》ると考《かんが》へさせる。實際《じつさい》又《また》熱帶國《ねつたいこく》には不思議《ふしぎ》な動物《どうぶつ》も居《を》れば、不思議《ふしぎ》な植物《しよくぶつ》もある。之《これ》を少《すこ》し形《かたち》を變《か》へると直《す》ぐ化物《ばけもの》になる。印度《いんど》は實《じつ》に化物《ばけもの》の本場《ほんば》であつて、神聖《しんせい》なる史詩《しし》ラーマーヤナ等《とう》には化物《ばけもの》が澤山《たくさん》出《で》て來《く》る。印度教《いんどけう》に出《で》て來《く》るものは、何《いづ》れも不思議《ふしぎ》千|萬《ばん》なものばかり、三|面《めん》六|臂《ぴ》とか顏《かほ》や手足《てあし》の無數《むすう》なものとか、半人《はんにん》半獸《はんじう》、半人《はんにん》半鳥《はんてう》などの類《るゐ》が澤山《たくさん》ある。佛教《ぶつけう》の五|大《だい》明王等《めうわうとう》も印度教《いんどけう》から來《き》て居《ゐ》る。
 印度《いんど》から西《にし》へ行《ゆ》くと、ペルシヤが非常《ひぜう》に盛《さかん》である。ペルシヤには例《れい》の有名《いうめい》なルステムの化物退治《ばけものたいぢ》の神話《しんわ》があり、アラビヤには例《れい》の有名《いうめい》なアラビヤンナイトがある。埃及《えじぷと》もさうである。洋々《やう/\》たるナイル河《かは》、荒漠《くわうばく》たるサハラの沙漠《さばく》、是等《これら》は大《おほい》に化物思想《ばけものしさう》の發達《はつたつ》を促《うなが》した。埃及《えじぷと》の神樣《かみさま》には化物《ばけもの》が澤山《たくさん》ある。併《しか》し之《これ》が希臘《ぎりしや》へ行《い》くと餘程《よほど》異《ことな》り、却《かへ》[#ルビの「かへ」は底本では「かへつ」]つて日本《にほん》と似《に》て來《く》る。これ山川《さんせん》風土《ふうど》氣候等《きこうとう》、地理的關係《ちりてきくわんけい》の然《しか》らしむる所《ところ》であつて、凡《すべ》てのものは小《こ》じんまりとして居《を》り、隨《したが》つて化物《ばけもの》も皆《みな》小規模《せうきも》である。希臘《ぎりしや》の神《かみ》は皆《みな》人間《にんげん》で僅《はづか》にお化《ばけ》はあるが、怖《こわ》くないお化《ばけ》である。夫《それ》は深刻《しんこく》な印度《いんど》の化物《ばけもの》とは比《くら》べものにならぬ。例《たと》へば、ケンタウルといふ惡神《あくしん》は下半身《しもはんしん》は馬《うま》で、上半身《かみはんしん》は人間《にんげん》である。又《また》ギカントスは兩脚《れうあし》が蛇《へび》で上半身《かみはんしん》は人間《にんげん》、サチルスは兩脚《れうあし》は羊《ひつじ》で上半《かみはん》が人間《にんげん》である。凡《およ》そ眞《しん》の化物《ばけもの》といふものは、何處《どこ》の部分《ぶぶん》を切《き》り離《はな》しても、一|種《しゆ》異樣《いやう》な形相《げうさう》で、全體《ぜんたい》としては渾然《こんぜん》一|種《しゆ》の纏《まと》まつた形《かたち》を成《な》したものでなければならない。然《しか》るに希臘《ぎりしや》の化物《ばけもの》の多《おほ》くは斯《かく》の如《ごと》く繼合《つぎあは》せ物《もの》である。故《ゆゑ》に眞《しん》の化物《ばけもの》と言《い》ふことは出來《でき》ないのである。然《しか》らば北歐羅巴《きたようろつぱ》の方面《はうめん》はどうかと見遣《みや》るに、此《この》方面《はうめん》に就《つい》ては私《わたし》は餘《あま》り多《おほ》く知《し》らぬが、要《えう》するに幼稚《えうち》極《きは》まるものであつて、規模《きぼ》が極《きは》めて小《ちい》さいやうである。つまり歐羅巴《ようろつぱ》の化物《ばけもの》は、多《おほ》くは東洋思想《とうやうしさう》の感化《かんくわ》を受《う》けたものであるかと思《おも》ふ。
 以上《いじやう》述《の》べた所《ところ》を總括《そうくわつ》して、化物思想《ばけものしさう》はどういふ所《ところ》に最《もつと》も多《おほ》く發達《はつたつ》したかと考《かんが》へて見《み》るに、化物《ばけもの》の本場《ほんば》は是非《ぜひ》熱帶《ねつたい》でなければならぬ事《こと》が分《わか》る。熱帶地方《ねつたいちはう》の自然界《しぜんかい》は極《きは》めて雄大《ゆうだい》であるから、思想《しさう》も自然《しぜん》に深刻《しんこく》になるものである。そして熱帶《ねつたい》で多神教《たしんけう》を信《しん》ずる國《くに》に於《おい》て、最《もつと》も深刻《しんこく》な化物思想《ばけものしさう》が發達《はつたつ》したといふ事《こと》が言《い》へる。縱令《たとへ》熱帶《ねつたい》でなくとも、多神教國《たしんけうこく》には化物《ばけもの》が發達《はつたつ》した。例《たと》へば西藏《ちべつと》の如《ごと》き、其《その》喇嘛教《らまけう》は非常《ひじやう》に妖怪的《えうくわいてき》な宗教《しうけう》である。斯樣《かやう》にして印度《いんど》、亞刺比亞《あらびや》、波斯《ぺるしや》から、東《ひがし》は日本《にほん》まで、西《にし》は歐羅巴《ようろつぱ》までの化物《ばけもの》を總括《そうくわつ》して見《み》ると、化物《ばけもの》の策源地《さくげんち》は亞細亞《あじあ》の南方《なんぱう》であることが分《わか》るのである。
 尚《なほ》化物《ばけもの》に一の必要條件《ひつえうぜうけん》は、文化《ぶんくわ》の程度《ていど》と非常《ひぜう》に密接《みつせつ》の關係《くわんけい》を有《いう》する事《こと》である。化物《ばけもの》を想像《さうざう》する事《こと》は理《り》にあらずして情《ぜう》である。理《り》に走《はし》ると化物《ばけもの》は發達《はつたつ》しない。縱令《たとひ》化物《ばけもの》が出《で》ても、其《それ》は理性的《りせいてき》な乾燥無味《かんさうむみ》なものであつて、情的《ぜうてき》な餘韻《よいん》を含《ふく》んで居《ゐ》ない。隨《したが》つて少《すこ》しも面白味《おもしろみ》が無《な》い。故《ゆゑ》に文運《ぶんうん》が發達《はつたつ》して來《く》ると、自然《しぜん》化物《ばけもの》は無《な》くなつて來《く》る。文化《ぶんくわ》が發達《はつたつ》して來《く》れば、自然《しぜん》何處《どこ》か漠然《ばくぜん》として稚氣《ちき》を帶《お》びて居《ゐ》るやうな面白《おもしろ》い化物思想《ばけものしさう》などを容《い》れる餘地《よち》が無《な》くなつて來《く》るのである。
       三 化物の分類
 以上《いじやう》で大體《だいたい》化物《ばけもの》の概論《がいろん》を述《の》べたのであるが、之《これ》を分類《ぶんるゐ》して見《み》るとどうなるか。之《これ》は甚《はなは》だ六ヶしい問題《もんだい》であつて、見方《みかた》により各《おの/\》異《ことな》る譯《わけ》である。先《ま》づ差當《さしあた》り種類《しゆるゐ》の上《うへ》からの分類《ぶんるゐ》を述《の》べると、
(一)神佛《しんぶつ》(正體《しやうたい》、權化《ごんげ》)
(二)幽靈《ゆうれい》(生靈《いきれう》、死靈《しれう》)
(三)化物《ばけもの》(惡戲《あくぎ》の爲《ため》、復仇《ふくしう》の爲《ため》) (四)精靈《せいれう》 (五)怪動物《くわいどうぶつ》
の五となる。
(一)の神佛《しんぶつ》はまともの物《もの》もあるが、異形《いげう》のものも多《おほ》い。そして神佛《しんぶつ》は往々《わう/\》種々《しゆ/″\》に變相《へんさう》するから之《これ》を分《わか》つて正體《しやうたい》、權化《ごんげ》の二とすることが出來《でき》る。化物的神佛《ばけものてきしんぶつ》の實例《じつれい》は、印度《いんど》、支那《しな》、埃及方面《えじぷとはうめん》に極《きは》めて多《おほ》い。釋迦《しやか》が[#「釋迦《しやか》が」は底本では「釋迦《しやか》か」]既《すで》にお化《ば》けである。卅二|相《さう》を其儘《そのまゝ》現《あら》はしたら恐《おそ》ろしい化物《ばけもの》が出來《でき》るに違《ちが》ひない。印度教《いんどけう》のシヴアも隨分《ずゐぶん》恐《おそろ》[#ルビの「おそろ」は底本では「おそ」]しい神《かみ》である。之《これ》が權化《ごんげ》して千|種《しゆ》萬樣《ばんやう》の變化《へんくわ》を試《こゝろ》みる。ガネーシヤ即《すなは》ち聖天樣《せうてんさま》は人身《じんしん》象頭《ざうづ》で、惡神《あくしん》の魔羅《まら》は隨分《ずゐぶん》思《おも》ひ切《き》つた不可思議《ふかしぎ》な相貌《さうぼう》の者《もの》ばかりである。埃及《えじぷと》のスフインクスは獅身《ししん》人頭《じんとう》である。埃及《えじぷと》には頭《あたま》が鳥《とり》だの獸《けもの》だの色々《いろ/\》の化物《ばけもの》があるが皆《みな》此内《このうち》である。此《この》(一)に屬《ぞく》するものは概《がい》して神祕的《しんぴてき》で尊《たうと》い。
 化物《ばけもの》の分類《ぶんるゐ》の中《うち》、第《だい》二の幽靈《ゆうれい》は、主《しゆ》として人間《にんげん》の靈魂《れいこん》であつて之《これ》を生靈《いきれう》死靈《しれう》の二つに分《わ》ける。生《い》[#ルビの「い」は底本では「き」]きながら魂《たましひ》が形《かたち》を現《あら》はすのが生靈《いきれう》で、源氏物語《げんじものがたり》葵《あをひ》の卷《まき》の六|條《でう》御息所《みやすみどころ》の生靈《いきれう》の如《ごと》きは即《すなは》ち夫《それ》である。日高川《ひだかがは》の清姫《きよひめ》などは、生《い》きながら蛇《じや》になつたといふから、之《これ》も此《この》部類《ぶるゐ》に入《い》れても宜《よ》い。死靈《しれう》は、死後《しご》に魂《たましひ》が異形《いげう》の姿《すがた》を現《あら》はすもので、例《れい》が非常《ひぜう》に多《おほ》い。其《その》現《あら》はれ方《かた》は皆《みな》目的《もくてき》に依《よ》つて異《こと》なる。其《その》目的《もくてき》は凡《およ》そ三つに分《わか》つことが出來《でき》る。一は怨《うらみ》を報《はう》ずる爲《ため》で一|番《ばん》怖《こわ》い。二は恩愛《おんあい》の爲《ため》で寧《むし》ろいぢらしい。三は述懷的《じゆつくわいてき》である。一の例《れい》は數《かぞ》ふるに遑《いとま》がない。二では謠《うたい》の「善知鳥《うとう》」など、三では「阿漕《あこぎ》」、「鵜飼《うがひ》」など其《その》適例《てきれい》である。幽靈《ゆうれい》は概《がい》して全體《ぜんたい》の性質《せいしつ》が陰氣《いんき》で
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