日本建築の發達と地震
伊東忠太
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《》:ルビ
(例)昔《むかし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)覺《かく》三|氏《し》
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(例)外人《ぐわいじん》[#ルビの「ぐわいじん」は底本では「ぐわんじん」]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そも/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 太古の家と地震
昔《むかし》、歐米《おうべい》の旅客《りよきやく》が日本《にほん》へ來《き》て、地震《ぢしん》のおほいのにおどろくと同時《どうじ》に、日本《にほん》の家屋《かをく》が、こと/″\く軟弱《なんじやく》なる木造《もくざう》であつて、しかも高層建築《かうそうけんちく》のないのを見《み》て、これ畢竟《ひつきやう》地震《ぢしん》に對《たい》する災害《さいがい》を輕減《けいげん》するがためであると解《かい》してくれた。
何事《なにごと》も外國人《ぐわいこくじん》の説《せつ》を妄信《まうしん》する日本人《にほんじん》は、これを聞《き》いて大《おほ》いに感服《かんふく》したもので、識見《しきけん》高邁《かうまい》と稱《せう》せられた故《こ》岡倉《をかくら》覺《かく》三|氏《し》の如《ごと》きも、この説《せつ》を敷衍《ふえん》して日本美術史《にほんびじゆつし》の劈頭《へきとう》にこれを高唱《かうしやう》したものであるが今日《こんにち》においても、なほこの説《せつ》を信《しん》ずる人《ひと》が少《すくな》くないかと思《おも》ふ。
少《すくな》くとも日本建築《にほんけんちく》は古來《こらい》地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》の中《なか》へ加《くは》へ、材料《ざいれう》構造《こうさう》に工風《くふう》を凝《こ》らし、遂《つひ》に特殊《とくしゆ》の耐震的樣式手法《たいしんてきやうしきしゆはふ》を大成《たいせい》したと推測《すゐそく》する人《ひと》は少《すくな》くないやうである。
予《よ》はこれに對《たい》して全《まつた》く反對《はんたい》の意見《いけん》をもつてゐる。今《いま》試《こゝろ》みにこれを述《の》べて世《よ》の批評《ひへう》を乞《こ》ひたいと思《おも》ふ
* * * * *
外人《ぐわいじん》[#ルビの「ぐわいじん」は底本では「ぐわんじん」]の地震説《ぢしんせつ》は一|見《けん》甚《はなは》だ適切《てきせつ》であるが如《ごと》くであるが、要《えう》するにそは、今日《こんにち》の世態《せたい》をもつて、いにしへの世態《せたい》を律《りつ》せんとするもので、いはゆる自家《じか》の力《ちから》を以《もつ》て自家《じか》を強壓《けうあつ》するものであると思《おも》ふ。
換言《くわんげん》すれば、一|種《しゆ》の自家中毒《じかちうどく》であると思《おも》ふ。
そも/\日本《にほん》には天地開闢以來《てんちかいびやくいらい》、殆《ほとん》ど連續的《れんぞくてき》に地震《ぢしん》が起《お》こつてゐたに相違《さうゐ》ない。その程度《ていど》も安政《あんせい》、大正《たいしやう》の大震《だいしん》と同等《どうとう》若《も》しくはそれ以上《いじやう》のものも少《すくな》くなかつたらう。
しかし太古《たいこ》における日本《にほん》の世態《せたい》は決《けつ》してこれが爲《ため》に大《だい》なる慘害《さんがい》を被《かうむ》らなかつたことは明瞭《めいれう》である。
太古《たいこ》の日本家屋《にほんかおく》は、匠家《せうか》のいはゆる天地根元宮造《てんちこんげんみやづくり》と稱《しやう》するもので無造作《むざうさ》に手《て》ごろの木《き》を合掌《がつしやう》に縛《しば》つたのを地上《ちじやう》に立《た》てならべ棟木《むなぎ》を以《もつ》てその頂《いたゞき》に架《か》け渡《わた》し、草《くさ》を以《もつ》て測面《そくめん》を蔽《おほ》うたものであつた。
つまり木造《もくざう》草葺《くさふき》の三|角形《かくけい》の屋根《やね》ばかりのバラツクであつた。
いつしかこれが發達《はつたつ》して、柱《はしら》を建《た》てゝその上《うへ》に三|角《かく》のバラツクを載《の》せたのが今日《こんにち》の普通民家《ふつうみんか》の原型《げんけい》である。
斯《か》くの如《ごと》き材料《ざいれう》構造《こうざう》の矮小《わいせう》軟弱《なんじやく》なる家屋《かをく》は殆《ほとん》ど如何《いか》なる激震《げきしん》もこれを潰倒《くわいたう》することが出來《でき》ない。
たとひ潰倒《くわいたう》しても人《ひと》の生命《せいめい》に危害《きがい》を與《あたふ》ることは先《まづ》ないといつてもよい。
即《すなは》ち太古《たいこ》の國民《こくみん》は、頻々《ひん/\》たる地震《ぢしん》に對《たい》して、案外《あんぐわい》平氣《へいき》であつたらうと思《おも》ふ。
二 何故太古に地震の傳説がないか
頻々《ひん/\》たる地震《ぢしん》に對《たい》しても、古代《こだい》の國民《こくみん》は案外《あんぐわい》平氣《へいき》であつた。いはんや太古《たいこ》にあつては都市《とし》といふものがない。
こゝかしこに三々五々のバラツクが散在《さんざい》してゐたに過《す》ぎない。巨大《きよだい》なる建築物《けんちくぶつ》もない。
たとひ或《ある》一二の家《いへ》が潰倒《くわいたう》しても、引《ひき》つゞいて火災《くわさい》を起《お》こしても、それは殆《ほとん》ど問題《もんだい》でない。
罹災者《りさいしや》は直《たゞち》にまた自《みづか》ら自然林《しぜんりん》から樹《き》を伐《き》つて來《き》て咄嗟《とつさ》の間《ま》にバラツクを造《つく》るので、毫《がう》も生活上《せいくわつじやう》に苦痛《くつう》を感《かん》じない。
いはんやまた家《いへ》を潰《つぶ》すほどの大震《たいしん》は、一|生《しやう》に一|度《ど》あるかなしである。太古《たいこ》の民《たみ》が何《なん》で地震《ぢしん》を恐《おそ》れることがあらう。また何《なん》で家《いへ》を耐震的《たいしんてき》にするなどといふ考《かんが》へが起《お》こり得《え》やう。
それよりは少《すこ》しでも美《うつく》しい立派《りつぱ》な、快適《くわいてき》な家《いへ》を作《つく》りたいといふ考《かんが》へが先立《さきだ》つて來《き》たらねばならぬ。
若《も》しも太古《たいこ》において國民《こくみん》が、地震《ぢしん》をそれほどに恐《おそ》れたとすれば、當然《たうぜん》地震《ぢしん》に關《くわん》する傳説《でんせつ》が太古《たいこ》から發生《はつせい》してゐる筈《はず》であるが、それは頓《とん》と見當《みあ》たらぬ。
第《だい》一|日本《にほん》の神話《しんわ》に地震《ぢしん》に關《くわん》する件《けん》がないやうである。
有史時代《いうしじだい》に入《い》つてはじめて地震《ぢしん》の傳説《でんせつ》の見《み》えるのは、孝靈天皇《かうれいてんのう》の五|年《ねん》に近江國《あふみのくに》が裂《さ》けて琵琶湖《びはこ》が出來《でき》、同時《どうじ》に富士山《ふじさん》が噴出《ふんしゆつ》して駿《すん》、甲《かふ》、豆《づ》、相《さう》の地《ち》がおびたゞしく震動《しんどう》したといふのであるが、その無稽《むけい》であることはいふまでもない。
つぎに允恭天皇《いんけうてんのう》の五|年《ねん》丙辰《ひのえたつ》七|月《ぐわつ》廿四|日《か》地震《ぢしん》、宮殿《きうでん》舍屋《しやをく》を破《やぶ》るとある。
次《つ》ぎに推古天皇《すゐこてんのう》の七|年《ねん》乙未《きのとひつじ》四|月《ぐわつ》廿七|日《にち》に大地震《おほぢしん》があつた。
日本書紀《にほんしよき》[#「日本書紀《にほんしよき》」は底本では「日本書記《にほんしよき》」]に七年夏四月乙未朔辛酉、地動、舍屋悉破、則令四方俾祭地震神とあるが、地震神《ぢしんかみ》といふ特殊《とくしゆ》の神《かみ》は知《し》られてゐない。
要《えう》するに、このごろに至《いた》つて地震《ぢしん》の恐《おそ》ろしさが漸《やうや》く分《わ》かつたので、神《かみ》を祭《まつ》つてその怒《いか》りを解《と》かんとしたのであらう。
爾來《じらい》地震《ぢしん》の記事《きじ》は、かなり詳細《せうさい》に文献《ぶんけん》に現《あらは》れてをり、その慘害《さんがい》の状《じやう》も想像《さうざう》されるが、これを建築發達史《けんちくはつたつし》から見《み》て、地震《ぢしん》のために如何《いか》なる程度《ていど》において、構造上《こうざうぜう》に考慮《かうりよ》が加《くは》へられたかは疑問《ぎもん》である。
三 なぜ古來木造の家ばかり建てたか
論者《ろんしや》は曰《いは》く、『日本太古《にほんたいこ》の原始的家屋《げんしてきかをく》はともかくも、既《すで》に三|韓《かん》支那《しな》と交通《かうつう》して、彼《か》の土《と》の建築《けんちく》が輸入《ゆにふ》されるに當《あた》つて、日本人《にほんじん》は何《なに》ゆゑに彼《か》の土《と》において賞用《しやうよう》せられた石《いし》や甎《せん》の構造《こうざう》を避《さ》けて、飽《あ》くまで木造《もくざう》一|點《てん》張《ば》りで進《すゝ》んだか、これは畢竟《ひつけう》地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》したゝめではなからうか』と。
なるほど、一|應《おう》理屈《りくつ》はあるやうであるが、予《よ》の見《み》る所《ところ》は全然《ぜん/\》これに異《こと》なる。
問題《もんだい》は決《けつ》してしかく單純《たんじゆん》なものではなくして、別《べつ》に深《ふか》い精神的理由《せいしんてきりゆう》があると思《おも》ふ。
* * * * *
日本《にほん》の建築《けんちく》が古來《こらい》木造《もくざう》を以《もつ》て一|貫《くわん》して來《き》た原因《げんいん》は、第《だい》一に、わが國《くに》に木材《もくざい》が豊富《ほうふ》であつたからである。
今日《こんにち》ですら日本全土《にほんぜんど》の七十パーセントは樹木《じゆもく》を以《もつ》て蔽《おほ》はれてをり、約《やく》四十五パーセントは森林《しんりん》と名《な》づくべきものである。
いはんや太古《たいこ》にありては、恐《おそ》らく九十パーセントは樹林《じゆりん》であつたらうと思《おも》はれる。
この樹林《じゆりん》は、檜《ひのき》、杉《すぎ》、松等《まつとう》の優良《いうれう》なる建築材《けんちくざい》であるから、國民《こくみん》は必然《ひつぜん》これを伐《き》つて家《いへ》をつくつたのである。
そしてそれが朽敗《きうはい》または燒失《せうしつ》すれば、また直《たゞち》にこれを再造《さいざう》した。が、伐《き》れども盡《つ》きぬ自然《しぜん》の富《とみ》は、終《つひ》に國民《こくみん》をし、木材以外《もくざいいぐわい》の材料《ざいれう》を用《もち》ふるの機會《きくわい》を得《え》ざらしめた。
かくて國民《こくみん》は一|時的《じてき》のバラツクに住《す》まひ慣《な》れて、一|時的《じてき》主義《しゆぎ》の思想《しさう》が養成《やうせい》された。
家屋《かおく》は一|代《だい》かぎりのもので、子孫繼承《しそんけいしやう》して住《す》まふものでないといふ思想《しさう》が深《ふか》い根柢《こんてい》をなした。
否《いな》、一|代《だい》のうちでも、家《いへ》に死者《ししや》が出來《でき》れば、その家《いへ》は汚《けが》れたものと考《かんが》へ、屍《しかばね》を放棄《はうき》して、別《べつ》に新《あたら》しい家《いへ》を作《つく》つたのである。
奧津棄戸《おきつすたへ》と
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