いふ語《ご》は即《すなは》ちこれである。
 しかし國民《こくみん》は生活《せいくわつ》の一|時的《じてき》なるを知《し》ると同時《どうじ》に、死《し》の恒久的《こうきうてき》なるを知《し》つてゐた。
 ゆゑにその屍《しかばね》をいるゝ所《ところ》の棺槨《くわんくわく》には恒久的材料《こうきうてきざいれう》なる石材《せきざい》を用《もち》ひた。もつとも棺槨《くわんくわく》も最初《さいしよ》は木材《もくざい》で作《つく》つたが、發達《はつたつ》して石材《せきざい》となつたのである。
 即《すなは》ち太古《たいこ》の國民《こくみん》は必《かなら》ずしも石《いし》を工作《こうさく》して家屋《かをく》をつくることを知《し》らなかつたのではない。たゞその心理《しんり》から、これを必要《ひつえう》としなかつたまでゞある。
 若《も》しも太古《たいこ》の民《たみ》が地震《ぢしん》を恐《おそ》れて、石造《せきざう》の家屋《かをく》を作《つく》らなかつたと解釋《かいしやく》するならば、その前《まへ》に、何《なに》ゆゑにかれ等《ら》は火災《くわさい》を恐《おそ》れて石造《せきざう》の家《いへ》を作《つく》らなかつたかを説明《せつめい》せねばならぬ。
 火災《くわさい》は震災《しんさい》よりも、より頻繁《ひんぱん》に起《お》こり、より悲慘《ひさん》なる結果《けつくわ》を生《しやう》ずるではないか。
       四 耐震的考慮の動機
 一|屋《をく》一|代《たい》主義《しゆぎ》の慣習《くわんしふ》を最《もつと》も雄辯《ゆうべん》に説明《せつめい》するものゝ一は即《すなは》ち歴代《れきだい》遷都《せんと》の史實《しじつ》である。
 誰《たれ》でも、國史《こくし》を繙《ひもと》く人《ひと》は、必《かなら》ず歴代《れきだい》の天皇《てんのう》がその都《みやこ》を遷《せん》したまへることを見《み》るであらう。それは神武天皇即位《じんむてんのうそくゐ》から、持統天皇《ぢとうてんのう》八|年《ねん》まで四十二|代《だい》、千三百五十三|年間《ねんかん》繼續《けいぞく》した。
 この遷都《せんと》は、しかし、今日《こんにち》吾人《ごじん》の考《かんが》へるやうな手重《ておも》なものでなく、一|屋《をく》一|代《だい》の慣習《くわんしふ》によつて、轉轉《てん/\》近所《きんじよ》へお引越《ひきこし》になつたのである。
 この目的《もくてき》のためには、賢實《けんじつ》なる[#「賢實《けんじつ》なる」はママ]石造《せきざう》または甎造《せんざう》の恒久的宮殿《こうきうてききうでん》を造營《ざうえい》する事《こと》は都合《つがふ》が惡《わる》いのである。
 次《つ》ぎに持統《ぢとう》、文武《もんぶ》兩帝《りやうてい》は藤原宮《ふじはらぐう》に都《みやこ》したまひ、元明天皇《げんめうてんのう》から光仁天皇《くわうにんてんのう》まで七|代《だい》は奈良《なら》に都《みやこ》したまひ、桓武天皇以來《かんむてんのういらい》孝明天皇《かうめいてんのう》まで七十一|代《だい》は京都《けうと》に都《みやこ》したまひたるにて、漸次《ぜんじ》に帝都《ていと》が恒久的《こうきうてき》となり、これに從《したが》つて都市《とし》が漸次《ぜんじ》に整備《せいび》し來《き》たつたのである。
 一|般《ぱん》民家《みんか》もまたこれに應《おう》じて一|代《だい》主義《しゆぎ》から漸次《ぜんじ》に永代主義《えいだいしゆぎ》に進《すゝ》んだ。
 しかしその材料《ざいれう》構造《こうざう》は依然《いぜん》として舊來《きうらい》のまゝで、耐震的工風《たいしんてきくふう》を加《くは》ふるが如《ごと》き事實《じじつ》はなかつたので、たゞ漸次《ぜんじ》に工作《こうさく》の技術《ぎじゆつ》が精巧《せいこう》に進《すゝ》んだまでである。
 それは例《たと》へば堂塔《だうたふ》伽藍《がらん》を造《つく》る場合《ばあひ》に、巨大《きよだい》なる重《おも》い屋根《やね》を支《さゝ》へる必要上《ひつえうじやう》、軸部《ぢくぶ》を充分《じうぶん》に頑丈《ぐわんぜう》に組《く》み堅《かた》めるとか、宮殿《きうでん》を造《つく》る場合《ばあひ》に、その格式《かくしき》を保《たも》ち、品位《ひんゐ》を備《そな》へるために、優良《いうれう》なる材料《ざいれう》を用《もち》ひ、入念《にふねん》の仕事《しごと》を施《ほどこ》すので、特《とく》に地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》して特殊《とくしゆ》の工夫《くふう》を加《くは》へたのではない。
 しかし本來《ほんらい》耐震性《たいしんせい》に富《と》む木造建築《もくざうけんちく》に、特別《とくべつ》に周到《しうたう》精巧《せいかう》なる工作《こうさく》を施《ほどこ》したのであるから、自然《しぜん》耐震的能率《たいしんてきのうりつ》を増《ま》すのは當然《たうぜん》である。
         *     *     *     *     *
 建築《けんちく》に耐震的考慮《たいしんてきかうりよ》を加《くは》ふるとは、地震《ぢしん》の現象《げんしやう》を考究《かうきう》して、材料《ざいれう》構造《こうざう》に特殊《とくしゆ》の改善《かいぜん》を加《くは》ふることで、これは餘程《よほど》人智《じんち》が發達《はつたつ》し、社會《しやくわい》が進歩《しんぽ》してからのことである。今《いま》その動機《どうき》について試《こゝろ》みに三|要件《えうけん》を擧《あ》げて見《み》よう。
 第《だい》一は、國民《こくみん》が眞劍《しんけん》に生命《せいめい》財産《ざいさん》を尊重《そんてう》するに至《いた》ることである。生命《せいめい》を毫毛《こうもう》よりも輕《かろ》んじ、財産《ざいさん》を塵芥《ぢんかい》よりも汚《けが》らはしとする時代《じだい》においては、地震《ぢしん》などは問題《もんだい》でない。
 日本《にほん》で國民《こくみん》が眞《しん》に生命《せいめい》の貴《たふと》きを知《し》り、財産《ざいさん》の重《おも》んずべきを知《し》つたのは、ツイ近《ちか》ごろのことである。
 從《したが》つて眞《しん》に耐震家屋《たいしんかおく》について考慮《かうりよ》し出《だ》したのは、あまり古《ふる》いことでない。
       五 耐震的建築の大成
 建築《けんちく》に耐震的考慮《たいしんてきかうりよ》を加《くは》ふるやうになつた第《だい》一の動機《どうき》は都市の建設[#「都市の建設」に丸傍点]である。
 人家密集《じんかみつしふ》の都市《とし》の中《なか》に、巨大《きよだい》なる建築《けんちく》が聳《そび》ゆるに至《いた》つて、はじめて震災《しんさい》の恐《おそ》るべきことが覿面《てきめん》に感《かん》ぜられる。
 いはゆる文化的都市《ぶんくわてきとし》が發達《はつたつ》すればするほど、災害《さいがい》が慘憺《さんたん》となる。從《したが》つて震災《しんさい》に對《たい》しても防備《ばうび》の考《かんが》へが起《お》こる。が、これも比較的《ひかくてき》新《あた》らしい時代《じだい》に屬《ぞく》する。
 第《だい》三の動機《どうき》は、科學の進歩[#「科學の進歩」に丸傍点]である。地震《ぢしん》が如何《いか》なる有樣《ありさま》に於《おい》て家屋《かをく》を震盪《しんたう》し、潰倒《くわいたう》するかを觀察《くわんさつ》し破壞《はくわい》した家屋《かおく》についてその禍根《くわこん》を闡明《せんめゐ》するの科學的知識《くわがくてきちしき》がなければ、これに對《たい》する防備的考察《ばうびてきかうさつ》は浮《う》かばない。
 古《いにしへ》の國民《こくみん》は地震《ぢしん》に遭《あ》つても、科學的素養《くわがくてきそやう》が缺《か》けてゐるから、たゞ不可抗力《ふかかうりよく》の現象《げんしやう》としてあきらめるだけで、これに對抗《たいかう》する方法《はうはふ》を案出《あんしゆつ》し得《え》ない。
 日本《にほん》でも徳川柳營《とくがはりうえい》において、いつのころからか『地震《ぢしん》の間《ま》』と稱《しやう》して、極《き》はめて頑丈《ぐわんぜう》な一|室《しつ》をつくり、地震《ぢしん》の際《さい》に逃《に》げこむことを考《かんが》へ、安政大震《あんせいだいしん》の後《のち》、江戸《えど》の町醫者《まちいしや》小田東叡《をだとうえい》(安政《あんせい》二|年《ねん》十二|月《ぐわつ》出版《しゆつぱん》、防火策圖解《ばうくわさくづかい》)なるものか壁《かべ》に筋《すぢ》かひを入《い》れることを唱道《しやうだう》した位《くらゐ》のことでそれ以前《いぜん》に別《べつ》に耐震的工夫《たいしんてきくふう》の提案《ていあん》されたことは聞《き》かぬのである。
 以上《いじやう》略述《りやくじゆつ》した如《ごと》く、日本家屋《にほんかをく》が木造《もくざう》を以《もつ》て出發《しゆつぱつ》し、木造《もくざう》を以《もつ》て發達《はつたつ》したのは、國土《こくど》に特産《とくさん》する豊富《ほうふ》なる木材《もくざい》のためであつて、地震《ぢしん》の爲《ため》ではない。
 三|韓《かん》支那《しな》の建築《けんちく》は木材《もくざい》と甎《せん》と石《いし》との混用《こんよう》であるが、これも彼《か》の土《ど》における木材《もくざい》が比較的《ひかくてき》貧少《ひんせう》であるのと、石材《せきざい》及《およ》び甎《せん》に適《てき》する材料《ざいれう》が豊富《ほうふ》であるがためである。
 その建築《けんちく》が日本《にほん》に輸入《ゆにふ》せられて、しかも純木造《じゆんもくざう》に改竄《かいざん》されたのは、やはり材料《ざいれう》と國民性《こくみんせい》とのためで地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》したためではない。
 爾來《じらい》日本建築《にほんけんちく》は漸次《ぜんじ》に進歩《しんぽ》して堅牢《けんらう》精巧《せいかう》なものを生《しやう》ずるに至《いた》つたが、これは高級建築《かうきふけんちく》の必然的條件《ひつぜんてきでうけん》として現《あらは》れたので、地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》したためではない。
 日本《にほん》に往時《わうじ》高層建築《かうそうけんちく》はおほくなかつた。たゞ塔《たふ》には十三|重《ぢう》まであり、城堡《ぜうほう》には七|重《ぢう》の天守閣《てんしゆかく》まであり、宮室《きうしつ》には三|層閣《さうかく》の例《れい》があるが、一|般《ぱん》には單層《たんそう》を標準《へうじゆん》とする。
 これは多層建築《たそうけんちく》の必要《ひつえう》を見《み》なかつたためで、地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》したためではない。
 地震《ぢしん》を考慮《かうりよ》するやうになつたのは、各個人《かくこじん》が眞劍《しんけん》に生命《せいめい》財産《ざいさん》を尊重《そんてう》するやうになり、都市《とし》が發達《はつたつ》し科學思想《くわがくしさう》が普及《ふきふ》してからのことで、近《ちか》く三百|年來《ねんらい》のことと思《おも》はれる。
 今《いま》や社會《しやくわい》は一|回轉《くわいてん》した。各個人《かくこじん》は極端《きよくたん》に生命《せいめい》を重《おも》んじ財産《ざいさん》を尊《たつと》ぶ、都市《とし》は十|分《ぶん》に發達《はつたつ》して、魁偉《くわいゐ》なる建築《けんちく》が公衆《こうしゆ》を威嚇《ゐかく》する。科學《くわがく》は日《ひ》に月《つき》に進歩《しんぽ》する。
 國民《こくみん》はこゝにおいてか眞劍《しんけん》に耐震的建築《たいしんてきけんちく》の大成《たいせい》を絶叫《ぜつけう》しつゝあるのである。(完)
[#地から2字上げ](大正十三年四月「東京日日新聞」)



底本:「木片集」萬里閣書房
   1928(昭和3)年5月28日発行
   1928(昭和3)年6月10日4版
初出:「東京日日新聞」
   1924(大正13)年4月
入力:鈴木厚司

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