印度の聖人
松本文三郎
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今日私のお話し致しますることは印度の聖人と云ふ題でありまして、印度人の所謂聖人とは、如何なる人であるか、又何う云ふ事を爲すものであるかと云ふことを、少しお話して置きたいと思ふのであります。
世の人は總て西藏の國を世界の祕密國と云うて居る、成程西藏は外人の入ることを容易に許さない所でありますから、土地を開放しないと云ふ點から見ると如何にも祕密國のやうに考へられます、又祕密國に相違ありませぬ、併しながら祕密國と云ひますと、何だかソコに判らぬが結構なものでもあるやうに聯想して考へられるのでありますが、ドウも世の中に祕密々々と稱して居る物には、餘り祕密とすべき大切な物が無く却て平々凡々のものが多い、西藏も祕密國であると云ふと、如何にも結構な寳物でもあるか或は又未知の眞理でも包藏せられて居るやうに考へられますが、西藏國には左程面白い不思議な現象があるとも考へられない、近頃は西洋人も段々入込んで來ましたし、印度人は古から西藏に於ては非常に尊敬されて居る、印度は佛教國であり幾多聖人の生れ出た國であると云ふので、西藏人は非常に彼等を歡迎して居る、で是等の人々が西藏に入り其の事情を調べた書物も隨分出版になつて居る、之によつて見ると、他の範圍の事は知らぬが、兎に角宗教や文學と云ふやうな方面に於ては左程結構なものも無いやうに考へられる、開けて悔しき玉手箱で、西藏は今や既に半分以上も開けて居るのであるが、開けぬ方が尊い、所が印度の國は外人も容易に入ることが出來る、亞剌比亞からも西藏からも支那からも、四方八面這入口があつて、總て公開されて居るのであります、殊に近頃印度が英領になりましてからは、何處の隅でも容易に外人の近づくことを許すのでありまして、何等の祕密とする所もない、處が印度には中々不思議な事がある、吾々今日の學問をしたものでも容易に解釋の出來ぬことを印度人は極の昔からやつて居る、實に不思議なことがあるのである、で此の數年前に死にました英吉利の東洋學者マツクフエラーと云ふ人は、印度は實に世界の寳庫であつて、如何なる學問を研究するものも、此に新しい材料を發見する、西洋では判らない不思議な事實が印度には多々存在すると云うて居る、殊に印度と云ふ國は昔は開けた國でありまして、今は亡國の民とも云ふべき、如何にも憐れな國と成つて居りますが、古代に於ては文學に於ても技術に於ても宗教に於ても哲學に於ても中々豪い者を輩出した處である、而して英領に成つてからは大きな都は悉く西洋に化し、例へば孟買であるとか、マドラスであるとか、又はカルカツタであるとか、大きな開港塲は先づ西洋と大體違はない位である、が一歩踏込んで内地に這入つて行きますとマルで樣子が變つて仕舞ふ、印度は元來非常に保守的の國である、支那よりもモー一層保守的の樣に考へらる、で少しばかり田舍へ這入りますと殆ど太古の状態其儘で、我々も二千年以前は斯の如くであつたらうと想像される位である、土人は木か竹に泥を塗り上げ、丁度日本の土藏造りのやうで粗末なもの、或は小屋掛と云ふやうな種類の土間の小さな建物の中に這入つて、牛や羊と雜居して居る極めて簡單な生活である、家具などは無い、唯毎日必要な鍋、釜、小さな茶碗と云ふやうな種類のもの僅ばかりを有するのみである、夜具も着換への着物も何にもいらぬ、唯風呂敷のやうなもの一枚あれば宜し、誠に單簡なもので、何處へ行くにも夫れだけさへ持つて行けば差支ないのである、衣食住の單簡なことは實に驚くばかりである、西洋人が這入りましてからは鐵道も四通八達し、學校も色々な程度のものが到る處に設けられた、然るに土人は殆んど此等文明の利器を利用しない、彼等は皆一種の宗教心を持つて居つて、旅をするにも容易に乘物には乘らぬ、跣足で以て如何なる處へでも自分の身代の鍋釜を携へて歩いて往く、又子供を學校へ出すなんぞと云ふこともしない、外人は印度人の最も輕蔑する所で、日本で言へば穢多同樣に見做して居る、然う云ふものの教育する所が彼等に喜ばれなく却て擯斥せらるヽに至るのは寧ろ當然である、誠に文明の餘澤は未だ印度の國に行渡つて居らないのであります、昔は色々な技術も進歩し、宗教、文學も盛に研究されたものであつたが、今も彼等は依然として其の形骸を守り、少しも他のものを入れやうとはしない、で今でも印度では織物であるとか、金物細工であるとか立派なものが出來る、併し器械を用ひて製造すると云ふやうなことは少しもない、皆手細工で、小さい小屋に在つて手で以て遣つて居る、祖先傳來の技術である、祖先傳來で職を嗣いで居る技術と云ふものは、總て新しい意匠とか新奇な工夫をするといふことはない、併ながら昔から傳へて居る職を其儘に受繼いでやつて居るだけに、中々宜いものを作り出すことが出來る、然う云ふやうな譯で印度人は總ての方面に於て非常に昔を貴ぶ慣習が盛なのであります、茲に御話します印度の聖人と云ふことも唯それが宗教的方面に顯はれ出たに過ぎないのであります。
宗教的方面に於て印度人は昔から一種の不思議なる行をやる、而して其の行によつて一種不思議なる働を爲す、斯の如き行を爲し、又其不思議な働きを爲すものをば印度人は聖人と名づけ、非常に尊重して居るのであります、其の行と申しまするのは、日本では隨分昔から言傳もありますから、聞いただけでは左程珍らしいとも思はれませぬが、定即ち禪定に入ると云ふことであります、印度では何れの宗派に屬するものでも入定と云ふことは非常に大切な事と成つて居る、我が肉體が其の儘に神となり、若しくは神以上のものもとなり[#「ものもとなり」はママ]、神祕不可思議なる力を得ることが出來るといふ信仰によつて、彼等は皆禪定に入らんと努めるのであります、而して此の定に入ると云ふことに就て、茲に一の不思議なるお話があるのである。
是れは餘り遠い古の話ではありません、曾てハリダースと云ふ印度人が居りました、此の人は近代に於て印度の聖人と言はれ非常に一代の人に尊敬された人であります、其故は此人が他の人間より勝つて長く定に入ることが出來たからであります、是に就ては英吉利人を始め各國人も度々試驗をしたのでありますけれども、實際想像も及ばぬ不思議な行をやつた、といふのは彼は一週間、二週間、三週間、四週間の間も定に入る、然うするとマルで死人同樣に成つてしまふ、が一定の時期が來ると再び生返つて來る、定に入つて居る間はマルで死人同樣だが、一定の時期の後には段々復活し、暫くにして元の人間に返つて仕舞ふ、で英吉利人も餘りに不思議なることであると云ふので、非常な嚴重な監督を附けて試驗をした事が何回もある、又印度には多くの回教徒が入込んで居りますが、是れは印度教の敵であり、何かと云ふと惡樣に言ひ觸らさんとするのである、で回教徒も是れを疑ひまして試驗したことがある。
扨此のハリダースが定に入らんとするに當つては先づ自ら幾日間定に入ると云ふことを極める、而して其の間棺桶の中へ入つて地面の下へ埋まれ、マルで空氣も何も通はぬやうにしてしまふ、それから豫定の三週間なり四週間なりの時日が經つと之を掘上げる、其時はマルで死人同樣であるが、一定の手段方法によつて段々生返つて來るのである、彼のハリダースと云ふ人間は一番長く此の定に入ることが出來たのであります、で尚詳しく定に入る時の状態をお話申しまするですが、先づ定に入る前の豫備からして話しませう、ハリダースが定に入る最初の手段は、先づ自分で呼吸を止めると云ふことであります、是れは印度人の定に入るものヽ皆やる所であつて、是をするには中々長い間の修業を要する、先づ舌を延ばして上の方へ卷上げて喉頭を押へて呼吸を自分で止めるのであるが、初少しばかり押へる間は尚ほ微に呼吸が通ずるが終りには死人同樣に全然息が止つて而も何等の苦痛を感じないやうになる、が此の息を止める前には尚色々の豫備が要る、で愈定に入ると云ふことになりますと、其の二三日前からして此のハリダースは下劑を飮みまして而して腹の中の物を下し、其の間は牛乳を少しばかりづヽ飮むが他のものは一切取らない、何でも腹の中に物があると工合が惡いと見えて、今日入定するといふ日になると一寸より少し廣い位な布の片で、長さは三丈ばかりもある所の細長いものを口からして飮み込む、素人には中々出來さうもないが、練習をすると容易に出來るやうになる、而して彼の布片を一度飮み込んでしまふと又た次第に片端から引上げて來る、是れはツマリ胃の中を掃除して穢い物や何かを取去る爲である、それからして又大きい風呂桶の樣な桶に自分の肩位迄浸るやうに水を灌ぎ、而して細い管を肛門に挿込んで、それから水を容れて吾々の灌膓すると同樣に、穢物を出して膓の掃除をする、夫れが終ると今度は綿に油のやうなものを浸して鼻の孔や耳の孔等を塞いでしまふ、而して地面へは大風呂敷のやうな布を敷いて、其上に所謂結跏趺坐するのであります、それから前に言つた舌を捲き上げ定に入るのである、其の定に入つた人のことを書いたものを讀みますると次のやうなことがある、ズツと坐り込むと初めには先づ何だか身體の内方々に音聲が聞える、是は或は血管中の血の循環と云ふやうなものかも知れぬが、心臟の邊から首の邊、夫れからして眼の中程の處にまで音がする、而して其音が段々色々に變つて來る、初は皷のやうな音がするが、次には海の浪のやうな音、夫れからして雷の響、鐘の聲、貝を吹くやうな音、笛のやうな音となり、終には蜂の鳴くやうな音が聞えると云ひます、夫れから眠るが如く定に入つてしまふのであります、而して此等の事は澤山の人間の見物の眞中でやるのである、愈定に入つて殆ど死人のやうに成つてしまふと、傍の者が下に敷いてある大風呂敷のやうなもので其體を包んで、之を棺桶の中へ入れ地面の下へ埋める、或は又其の儘にして打遣つて置いても宜い、一週間も斯う云ふことをやつて居るのは印度人には決して珍らしくない、がハリダースは四十日間も地中に在つて、何ともないと云ふのであるから、世人からは非常な尊敬を受けたのである、ハリダース自身の話に據れば、彼れは一年間やつても善いと云うて居る、一年間は試みた事はないが四十日間位は確にやつたのであります、一番初めて其の試驗をやりましたのが、西暦千八百二十八年でありまして、ハリダースを知つて居る印度の土人が或地方の裁判所の役人となつて居つた、其の人が非常にハリダースを信仰して居るので、何うか彼の不思議な働きを其地方の兵營の中で試驗して貰ひたいと軍司令官の處へ申出ました、併し英人は今まで實地を知らぬのであるから、若し死んでしまふやうな事があつては迷惑であると思ひ中々許さなかつたが、其の知人は既に實驗して居る事であるから、決して死ぬ氣遣ひはない、何卒嚴重な監督の下で試驗を遣つて貰ひたい、然うすれば世人の信用を博する上に於て非常な利益があるといつて再三願つた、司令官も夫れならば遣つて見たが宜からうと云ふので、終に試驗をやることになりました、其の時は兵營の中庭を擇びまして入定の處となし、無數の見物人の中で其の術を行ふた、ハリダースが定に入つてからは三尺ばかりの深さに掘つた地中に埋めた、のみならず萬一の詐欺を防ぐが爲に、二時間交代の番兵を置き、少しも他人の立寄ることを許さぬことにした、斯の如くにして三日ばかりは無事に經過したが、當時の軍司令官は其時私かに思ふには、自分はハリダースの試驗を許すは許したが、三日までも地下に埋め置き、食物も與へなければ水もやらず、空氣も通はぬ、彼は死ぬに相違ない、兵營の中で斯樣な事をして萬一人を殺しては法律上自分も責任を負はなければならぬ、迷惑であると甚だしく不安の心を生じて、直に掘出しを命じた、併し前の土人は一向差閊ない、當人
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