れて居るのでありますが、印度では總てのものが斯く信じて疑はない、で例へば現在有りと在らゆる物、現世にある所のものは勿論、過去未來のものでも皆是を知り得て所謂一切智を成就する、何故かといへば總てのものは皆神の力によつて出來て居るものであるから、我既に神たる以上は我は即ち世界一切の物の本體であつて、世界一切のものは我の成す所である、我既に是を成すのであるから現在世界の一切のものを知ることが出來るのみならず、過去に於ては何う云ふものがあつたか、未來に於て何う云ふものが生ずるであらうかと云ふことも知らるるのである、此は一見不思議な事のやうでありますが、理論上からは説明の出來ないこともない、西洋でも例へばライブニッツと云ふ學者は夫れと同じやうなことを説いて居る、一體過去が變つて現在となり、現在が變つて未來となるのであるから、現在が明らかなれば是れから先何う變つて行くべきかと云ふことが判り、又何物から變化し來つたかといふことも知らるる筈である、從つて一切のものの前生が判る、印度では古來輪廻と云ふことを申しまして、生あるものは皆其働きの結果で天人乃至動植物界に迄輪轉して生を受けるのである、是れは佛教
前へ 次へ
全25ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 文三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング