のを飮食し、人の知らぬ間に又其内へ忍び込み、日中には知らぬ顏をして定に入つた振をして居ると云ふ化の皮が偶然にも現はれて、到頭追拂はれて仕舞つたのである、彼等も毎晩飮食に出掛けたと云ふ譯ではなかつたらうが、折惡しく出た時人に見附られたのであります、兎に角印度では眞に不思議な事をやつて居る、而して現時の學術上では迚も十分な説明は附かぬ、只不思議な現象として殘つて居るのである。
更に一歩を進め、印度人は何の爲に斯の如き行をやるやうになつたかと云ふに、印度人は是を以て修業の第一歩、非常な大切な缺くべからざる勤であると考へたのであります、前にもいつた如く行即ち定に入ると云ふことは、印度に於ては何れの宗派にあつてもやらぬものはないので、行によつて禪定三昧に入ると我即ち自分の意識は無くなつて、其の我が神と同一體になることが出來ると云ふのである、而して我即ち神となることが出來れば天地一切の事理は明瞭透徹知らざることないのである、故に行と云ふことは神と我とを冥合せしむる手段であつて、其の行によつて神と我とが一體になれば神變不可思議力を得ることが出來るといふ強い信仰があるのである、此事は佛教の中にも屡現は
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