のを飮食し、人の知らぬ間に又其内へ忍び込み、日中には知らぬ顏をして定に入つた振をして居ると云ふ化の皮が偶然にも現はれて、到頭追拂はれて仕舞つたのである、彼等も毎晩飮食に出掛けたと云ふ譯ではなかつたらうが、折惡しく出た時人に見附られたのであります、兎に角印度では眞に不思議な事をやつて居る、而して現時の學術上では迚も十分な説明は附かぬ、只不思議な現象として殘つて居るのである。
更に一歩を進め、印度人は何の爲に斯の如き行をやるやうになつたかと云ふに、印度人は是を以て修業の第一歩、非常な大切な缺くべからざる勤であると考へたのであります、前にもいつた如く行即ち定に入ると云ふことは、印度に於ては何れの宗派にあつてもやらぬものはないので、行によつて禪定三昧に入ると我即ち自分の意識は無くなつて、其の我が神と同一體になることが出來ると云ふのである、而して我即ち神となることが出來れば天地一切の事理は明瞭透徹知らざることないのである、故に行と云ふことは神と我とを冥合せしむる手段であつて、其の行によつて神と我とが一體になれば神變不可思議力を得ることが出來るといふ強い信仰があるのである、此事は佛教の中にも屡現はれて居るのでありますが、印度では總てのものが斯く信じて疑はない、で例へば現在有りと在らゆる物、現世にある所のものは勿論、過去未來のものでも皆是を知り得て所謂一切智を成就する、何故かといへば總てのものは皆神の力によつて出來て居るものであるから、我既に神たる以上は我は即ち世界一切の物の本體であつて、世界一切のものは我の成す所である、我既に是を成すのであるから現在世界の一切のものを知ることが出來るのみならず、過去に於ては何う云ふものがあつたか、未來に於て何う云ふものが生ずるであらうかと云ふことも知らるるのである、此は一見不思議な事のやうでありますが、理論上からは説明の出來ないこともない、西洋でも例へばライブニッツと云ふ學者は夫れと同じやうなことを説いて居る、一體過去が變つて現在となり、現在が變つて未來となるのであるから、現在が明らかなれば是れから先何う變つて行くべきかと云ふことが判り、又何物から變化し來つたかといふことも知らるる筈である、從つて一切のものの前生が判る、印度では古來輪廻と云ふことを申しまして、生あるものは皆其働きの結果で天人乃至動植物界に迄輪轉して生を受けるのである、是れは佛教
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