以前からして存する所の説で、佛教も亦固より之を唱へて居る、元來此に一の働きがあれば必らず其の結果がなければならぬ、而して前の働きの性質が善なれば後の結果も亦善、前が惡なれば後の結果も惡であると考へたのである、故に今生が判ると其の前生は何う云ふものであつたかと云ふことも推知し得らるる、夫からして生死の時日を前知することも出來る、此は日本の坊樣にも往々あることでありますが、何時何日に自分が死ぬと云ふことを前以て知るのである、夫れから天眼、天耳と云うて何んなものでも見え、何んな音でも聽くことが出來、又一切生物の音聲を聽分ける、蝉が鳴く聲を聽いて蝉は何と云うて鳴いて居るかと云ふことの意味を判ずる、論語に出て居る公冶長と云ふ人も雀の聲を聞分けると云ふことであるが是れも其の通りである、夫れから人も容貌擧動を見ると直に其如何なることを考へ、何を思うて居るかといふことも知り得らるる、アンな顏をして居るからアレは斯う思うて居るに相違ないと、人の考へて居ることを當てるのである、是れは素人にでも少しは判る、聲を聞いたり容貌を見たりすれば多少は其の心中の状態をも察せらるのである、禪宗の坊樣が人の足音を聽いても悟りが開けて居るか居らぬかが判ると同じである、夫れから身體を湮滅し所謂雲隱と云ふことが出來、又水中でも空中でも何處へでも自由自在に行く、尚不思議なのは體内から火焔を發し光明が耀いたり、或は自分の體を輕く毛の如くし、或は非常に重きこと大地の如くしたり、或は其の欲する所を思ひの儘に達しられるとか、總て斯う云ふ不思議なことが出來ると云ふのであります、で彼の聖人行者の目的とする所は全く然う云ふことにある、要するに入定の目的は我と神と一體たらしめ、茲に神變不可思議力を得んと欲するにある、印度人は此等の神通力に就ては、皆其の儘に即ち文字的に實際出來るものと考へて居るのであるから、此の入定者をば非常な聖人とし、吾々人間とは殆ど其の類の違つたものと考へるのであります、此の思想は釋迦の出世以前からありまして、夫から佛教と共に多少支那にも傳はり又日本へも傳はつて來たことであります、尚斯う云ふ行を爲すものは印度では何う云ふ種類階級の人であるかと云ふことを一言して置かう、元來印度にはバラモン(僧)、クシヤツトリア(王)、ヴアイシア(商工)、及びスードラ(奴婢)といふ四姓の階級があつて、其の内のバラモン姓のもの
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