りあげるかもしれない。そして子どもたちはこうした自由な環境、すべてを自分たちの手でうごかして見ることの環境としての夢を学校に求めていくのである。
しかしそのたのしかるべき自由の学園は、すでにおとなの鋳型によって、もっとも不自由な天地となって子どもたちを縛るのである。いわゆる「すべからず」の学風が今の学園を支配しているのである。
ボクラの先生は、質問すると叱るよ。
××先生はぼくらが掃除していると日なたぼっこしてるんだぜ。
○○先生は、新聞なんかみんなウソだと言ってたよ。
このような学校にも嵐が訪れている。その嵐が吹きやむと間もなく暖かい春が訪れてくるであろうか。
子どもには、いつも子どもの生話をたのしむ場としての学校。
子どもなりに、豊かな文化を恵まれ自由がいきいきと世のなかにまでかよっている学校。
親も教師も、子どもについての悩みは、ここに再出発の姿勢をかまえるべきだ。世の親と教師こそ子どもの前に総ざんげしなければなるまい。日本の人びとがながく冬のなかにおしこめられて自由を失っていたように日本の子どもも、そうした桎梏の環境のなかで揉まれながら冷たくかたい凍原のなかで春
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